第169話

その時はただ、兄の親友が落ち込んだ風にとぼとぼ歩いてた心配だけで行動していた筈だ。


「……?」


両神 日依(りょうかみ ひより)、現在7歳、普通なら小学2年に上がった直後である。あいにく日依は義務教育というものにはこれまでもこれからも縁が無く、例えるならばもろもろすべてすっ飛ばして職業訓練校に入ったような感じ。朝から昼まで神道の勉強をして、昼から晩まで儀式の練習。ただし日依の場合はそれだけでは済まされず、神道の他にも仏教、キリスト、イスラム、ユダヤ、ヒンドゥー、さらに中国神話から北欧インドメソポタミアギリシャエジプトケルトハワイアステカ果てはクトゥルーに至るまで、この世のあらゆる宗教、神話に対して最低限基礎知識を持っていなければならない。「お前には戦う力がある」と両親は言うが、一体何と戦うのだろう、必要になるとは思えない。


「陰陽寮……」


近衛府勤めの悠人にはまったく関係の無い場所だった、神祇官斎院からは北西に建物ひとつ挟んだ先、背後には内裏が広がっている。陰陽師とは狩衣装束に烏帽子かぶって占いしてる連中の事を指すが、元はといえば天文学や暦学を学び、季節の移り変わりや自然状態の変化から災害を予測する、要は天気予報士である。そこへ入っていった少年を追って近付き、しかし当然ながら神祇官所属の日依が玄関を通る事は出来ないので、通り過ぎるふりをしながら裏手へ回った。

たぶんこの壁の向こうが中心部だろう、という場所にぺたりと張り付き、前方へ意識を集中する。ぼんやり感じ取った人の気配と、外観から予想される間取りを照らし合わせて、悠人と同じ部屋にいるのはただ1人。


「……」


これほど心の冷たい人間は、この大内裏には彼女をおいて他にはいない。そりゃ確かに誰も彼も考えているのは金儲けばかり、良い人とはとても言えないが、何にせよ熱中できるものがあるならその心は冷めてはいない。だがあの人だけは、何に対しても熱が無い。ひたすらに人類の繁栄だけを目指しながら人類を欠片も愛さず、まるで自らが機構(システム)であるかの如く、取るべきものは取り、捨てるべきものはばさりと捨てる、怖い、とても怖い女性である。

今上天皇側室、陰陽寮トップ、悠人の護衛対象、鈴姫の実母、いろんな肩書きを持つその葛葉という女は、面と向かっていても何を考えているかまるでわからないのだが、その時ばかりは微かに感情が表面化していた。まず叱られているようには感じない、悠人が手引きし、直臣が防衛網を突破した事件に関しては2人共さんざん怒られた筈で、夫婦が会うのにどうして許しがいるのかと思ったものの、一晩中やまない怒鳴り声に怯えながら過ごした夜を思い出して泣きそうになり、しかし我慢して会話を聞き取る努力を続ける。


「え……」


今晩中に掃除を終える、明日の早朝に内裏へ入って残っているものを処分しろ。……わからんか?諸共殺せという事だ。

聞こえてきたのはそんな、背筋が凍る言葉だった。改めて言うまでもなく内裏は天皇家の住居であり、早朝というのが具体的に何時なのかにもよるが、日常業務が始まる前でも皇族の世話をする人間が常におり、どう見積もっても100人は下らない。もし”掃除”というのが”処分”と同じ意味であるなら、何の為にとか、あらかじめ逃がしておく人間はいるのかとか、わからない事だらけであるが、少なくともそこには、生まれてから内裏の外に出た事が一度も無い自らの義姉がきっと含まれる。

自分の娘はさすがに除外するだろうと普通は思う。だがあの女はやる、そういう人間だ。


あまりの意味のわからなさに泣き出しすらできず数歩後退。全身から汗を噴き出しながら混乱状態に陥り、義姉へ知らせようにもあの一件以降警備が強化され、今まで見逃されていた日依でさえ内裏の門をくぐる事は叶わない。誰かにこれを話して伝えてもらう、というのも無いだろう、ここには長いものに巻かれたがる人間しかいない、自らの両親含めて。

そこで悠人が陰陽寮から出ていくのを感じ取った。追いかけるべく慌てて駆け出し、右近衛府へ向かおうとする悠人を大内裏中央の庭のあたりで捉えて、無造作に後ろから腕を引っ張る。


「わぁ…!?」


悠人は一切抵抗しなかった、引っ張られたそのまま倒れこんでしまった。ドミノ倒しみたく一緒に倒れ。何が起きたかわからない、いや理解する気力すら失せている彼の上体をどうにか持ち上げて下から脱出、その後ぐたりと倒れたまま起き上がろうとしないのを見てからその胸を揺する。


「なに……何するの…!?」


「…………?」


呆けている、何を命令されたかも理解していないように。同じ事を何度か繰り返しても返事は返ってこず、そのうち倒れる子供に心配したのか、それとも目障りなのか、大人が集まってきてしまったのでとにかく悠人を起こして、自分の足で立たせ、ゆっくり歩かせていく。庭を通り抜ける頃には幾らかマシになったように見えるが、求めた回答が出る事は一向に無い。


「やめて…そんなのやだよ……」


「……なら今俺を殺せ」


唯一それだけが返ってきた。その後振り払われ、彼は右近衛府へ辿り着いてしまい、これ以上の追従は不可能となる。


「あ……うぅ…!」


止められない、そう確信しながらも、せめて兄には伝えようと急いで家へと足を向ける。

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