第168話

余分が無ければ不満は生まれないと彼女は言った、だとすればこの瞬間、スズは初めて余分を持ってしまったという事になる。


「大丈夫ですか?」


相変わらず日依は頻繁に遊びに来ているようだ、前回と同じく縁側に腰掛け、世界の向こうにいる未来の自分から「慣れたよ、いい加減慣れた。うん……うん…………」とか言われながらもひとしきり話をし、それが終われば手を振りながら走っていった。縁側に1人残されたスズは笑いながら手を振り返していたが、ただその後俯いて、何度か見たことのある表情になってしまった為、横からゆっくり歩み寄り、その度に聞いていた質問を彼女にもしてみた、のだが。


「どうして?」


「寂しそうに見えました」


「寂しい…?」


返ってきたのは今までとは違う言葉だ。これが当たり前と思い込まされる生活、人間、いや皇族として普通の生き方をしていると信じ続ける限り外の世界に興味など示さない。天皇家という場所に生まれた以上少なからず正しくはある、しかしそれでも、環境とアプローチに違いこそあれ、小さな殻の中に1人で閉じこもって、自分がどうしたいのかわからないでいるその姿は、かつてのアリシアそのものに見えた。


「1人になった事はありません、この内裏にはたくさん人がいて、私のそばには常に小間使いの方がいますから。……でも、ああ…寂しいって、こういうものなのね。よくわからないけど、少し辛い」


促され、日依(小)が座っていた場所にアリシアは腰掛ける。後ろを眺めて見ると藤壺の内部には確かに人の気配があって、この時間ならば夕食の準備をしているのだろうが、用意されるのは1人分、彼女らはスズの食事を黙って眺めるだけである。それで楽しいかと問われれば誰でも答えるだろう、楽しくないと。


「外の世界を見てみたいって思うようになりました、あの子の話を聞いていると、すごく楽しい場所みたいで……なんて、本当は口にしちゃいけないのだけど」


「……あの、あなたの立場を弁えずに言いますが、そうまでして我慢する必要はないのでは?」


反応を見る限り、今まで頑張れやら何やら言われ続けてきたのだろう。生まれて初めて言われた”頑張らなくていい”という言葉に、それまで俯いていたスズは顔を上げ、ぽかんとした表情でアリシアを見。


「自らの変化から目を背けて、居慣れた世界に閉じこもっていても、それはただ悲しいだけです、断言できます。きっとあなたはその行為を”逃げる”と表現するのでしょう、ですが恥じる事はないと思うのです、あなたは逃げたのではなく、戒めを解いただけなのですから」


「…………」


「だから、その、無理しなくていいですよ、今も。思う事があるなら話してください、教え込まれた話し方じゃなくて、もっと気楽に」


言い終えたら、少しの間沈黙が流れた。

失礼な言い分だったろうか、やめようと思ってやめられるものではないのだから。「お前はいい、いつでもやめられる」といつかの天皇は言っていた、現在の有り様から見てこの場所を嫌っているのは間違いないのだが、それでも彼女がここを離れないのは皇族としての責任を捨てられていないからだ。それは一般人からしたら想像すらできないほど重く、かつ一度失えば二度と取り戻せない。今のスズはそれを捨ててしまった、だから戻りたがらないし、おそらく罪悪感から、自分の望みも殺してしまっている。思っている事をそのまま伝えてみたが、なんというか人間の脳とは不便だ、言い終えた直後に後悔が来る。


「いいの?」


沈黙を破ったのは聞き慣れた、非常に聞き慣れた声だった。にじみ出る気品はどこかに追いやり、優雅さも消し去った、ごく普通の女の子っぽい声である。合わせて表情もさっきまで貼り付けていた、目を細めて微笑を浮かべる”あの笑顔”ではなく、やはりいつも見ている通りのものに。


「ふふ、でもごめんなさい、私はそうしたいけど、そんな事をしたら怒られてしまうもの」


ほんの一瞬でそれは終わる、次の言葉が出てくる頃には本当に8歳なのか信じられない口調に戻っており、その時アリシアは何か変な表情になっていたのか、腰を浮かせ横移動する事で距離を縮めて、慰めるように太ももへ手を乗せる。


「あ…ちょっと」


その際褐色の髪に糸くずが付いているのを見つけてしまい、ほぼ無意識に手を伸ばす。そっと指で摘み取り払うと、スズはやや笑みを深めながら、ぽつりと言う。


「なんだか貴女、お母さんみたい」


「orzッ……!!」


「え…?……えっ?」


あまりの不意打ちにスズとは反対方向の縁側へ頭を叩きつけてしまう。どことなく漏れ聞こえてくる笑い声に対し心の中で日依を呪いつつ大急ぎで立ち直り、表情を戻して、若干慌ててるスズに改めて目を向ける。


「なんでもありません、それでもうひとつ聞きたいのですが、あなたの言う”怒ってくる相手”について」


申し訳ないがどうしても聞かなければならない、彼女の事を問いたださなければここに来た意味が無いのだから。明らかに困った顔をするスズから視線を離さず、なるべく感情を出さないように。


「外の世界においてあなたの実母は独裁者として振る舞っている、知っていますよね」


「……はい。聞いていない筈なのに、どうしてかあの人のやった事は大体。だけどちゃんと理由があって」


「ああいえ、彼女が善か悪かは問題ではないのです、あなたを責めるつもりもありません。重要なのはあなたがそれを、良しとするのか、止めるべきだと思っているのか」


「…………わからない…というか、真っ向から否定するほどの理由を見つけられない」


アリシアを触れる手に力がこもる、また無意識に自分の手を重ねる。


「いかに最短距離を駆け抜けて発展を続けるか、あの人が考えているのはそれだけです。進化をし続けなければ人の世は成り立たないでしょう?だからそれ自体は当然の考え、現に我々はどこからの侵略にも屈さずここで生き延び、繁栄している。これはあの人の功績です、疑いようがない」


と、そこで何か、清涼殿の向こう側あたりで喧騒が起き始めた。


「人を弾圧するのも、絞り上げるのも悪い事だけど、もしあの人がいなかったら我々は生きてすらいなかった、だからわからない、あれは”止めていい”ものなのか」


瞬く間に大騒ぎへ発展していくそれはこの藤壺へと近付いてきて、スズの話を聞きつつ注意を向けると、ずっと黙っていた日依が呟く、『ああ、3度目だ』


「……わかりました、できればもう少しお話していたいのですが、ひとまず私は退散します」


え?と、呟くスズから目を離し、立ち上がって、騒ぎの方を流し見ながら離れていく。


「鈴(すず)!」


赤い髪と赤い耳、走ってきた為か着ている袴は乱れ切って、荒い息を上げながらも一目散に駆け寄ってきた。直臣(すぐおみ)の後からは数十人という近衛兵が追いかけてきたが、スズの前へ出て、彼女が手で静止すると、直臣を捕まえようとするのをやめ直立不動となってしまった。

状況から考えて、夫婦であるにも関わらず彼はスズとの面会を禁止されていたが、3重にもなる警戒線を突破してここに来てしまった、そんな感じだ。最初からひっくり返すつもりで、余分を与えたぶんだけスズは制御を失っていくというなら妥当な処置であったが、湧き上がってくるのはやはり怒り。


「なんで……」


「すまない…また来ると言っていたのに、こんなに遅くなって……いつも止められていたんだが…今日は悠人が通してくれて……」


これ以上は野暮だろう、記憶に入り込んでいるからといって何もかも見てしまうのはあまり良くない。彼に歩み寄るスズの姿を最後に、アリシアは彼らの見えない場所へ入る。


彼女の真意はなんとなくながら判明した、であれば後は。

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