第167話
『もうやだおうち帰るぅぅぅぅ…!』
あの瞬間から1週間経過した夕暮れの藤壺、相変わらず厳重に封鎖されたその場所にスズは居続けていた。もしやこれはスズを閉じ込める為の、とは一瞬思ったが、最底状態でさえ5mの大鬼を一方的に撃破する能力の持ち主だ、物理的な拘束は意味を成さない。そう考えると葛葉の行う精神的拘束は、彼女を制御するにあたって唯一とも言える手段である。
先程聞いた事が本当なら朝起きて食事して勉強して食事して勉強して食事して寝るだけの生活をしており、変化があるのは来客時のみという平坦な毎日らしい。しかしその日の彼女には来客があった、毛先が肩に届くくらいの長さと狐耳を持つ赤い髪と、今は上機嫌に笑っているものの義姉曰く”箸が転んだだけで泣く”不安定な表情と絹ごしメンタル、緋袴なのはお勉強帰りだからだと思われ、つまり帰り際にちょっと寄っただけなのだろうが、とにかく縁側に並んで腰掛けたスズと日依(小)が楽しげに話している所からそのシーンは始まった。おかげでようやく復活した日依(大)が目に入れるや幼児退行してしまって、いや否、この過去のありようを見る限りそれは間違いだ。両神 日依という人をからかうように笑い、森羅万象を見通した話し方をし、並み居る敵を力づくで叩き伏せてきた騎竜の魔女は、ここに至ってようやく本性を現したのだ。
「もしかして、誰であれ会って話した日はすべて印象深い場面として残っているのでは?」
『可能性は高い。でも、あまり信じたくはないかな、政略結婚とはいえもしそうであるなら1週間も夫と顔を合わせていない事になる』
それじゃあ本当に書面だけの婚姻だ、いくらなんでも救いがなさすぎる。ニニギの呟きを聞きつつも、後涼殿の影に隠れてアリシアは2人の様子を伺い続ける。この位置からでは会話を聞き取る事は出来ないが、恐らく今日は何をしただとか、おねえちゃん大好きとか、日依(大)をただただ辱めるだけの取り留めのない会話であろう。
『実際どうなのかな?君の兄と、彼女との関係性は』
『……4度…』
『…………え?』
『入籍してから、スズが内裏を脱出するまでの2ヶ月の間、あの2人が会って話をしたのは結婚式含めて4度だ』
『それは……』
『何もしてなかった訳じゃない、明らかに異常な状況だからな。この間うちの兄はいろんな所にちょこちょこ忍び込んでは聞き耳を立ててた、どうやら自分の家が葛葉に対して何らかの協力をした見返りにスズと結婚できたってまでは掴んでたようだが……正解を言っちまえば、艦齢8年以内の戦艦8隻巡洋戦艦8隻を基幹とする大規模海軍拡充計画、いわゆる八八艦隊の予算案通過に際して賛成票を投じる事、神祇伯は影響力だけなら高いってのは知ってるよな。その時点から向こう13年に渡って建造費24億円、年間維持費6億円を要する100隻以上の戦闘艦建造計画だ。大卒の初任給が40円だった頃の値段だぞ、年間総予算の半分近くを毎年毎年食い荒らすこのバカみてーな計画は今も進行中で、間も無く陸奥(むつ)が竣工、更に加賀(かが)、土佐(とさ)、天城(あまぎ)、赤城(あかぎ)も建造を続けてる。もちろん軍が必要とする金はそれだけじゃない、実質的に予算のほぼすべてを軍事費に突っ込んでるんだ、皇天大樹以外の東洋軍支配領域があんな事になるのも、当然っちゃ当然と言えるだろう』
その日依の話と、優しく笑うスズの姿を同時に見て、聞いて、浮かんだのは怒りだった。抗う為とはいえそんなことを思い付いた大人への怒り、実の娘を差し出した葛葉への怒り。あの夕焼けの海上で幻影を見た時は特に何も感じず、ああ自分達はこの人と戦おうとしているのか、くらいしか考えなかった。しかし今は明確に、きっと日依と同じ敵意を抱いたのだ。
『悲しくはそれだけやっても防衛が安定するってだけっつー……いや、いや待て、この状況は…そうだ危ねえ、思い出したぞ。アリシア、その位置はまずい、30歩退がって…いや30歩進め』
「スズの眼前まで行ってしまいますが」
『構やせん、どこまで行っても今の奴は人畜無害の聖人でしかないからな。それよりも、まぁその仮想空間上でいくら死んだっていいけどそれなりに痛いだろうし、いくら私とてぺしゃんこに潰れた母なんぞ見たくはないぞ』
誰が母かと言いながらもあまり穏やかでない未来予測に従いアリシアは前進を始める。壁の影から出た段階で彼女らは気付き、そして早送りと緊急退避が不可能になる。まっすぐ歩いてやがて縁側の前、突然の来訪者にさっそく日依(小)は不安げな顔になり義姉の左腕に巻きついてしまったが、スズは表情を一切変えず、微笑んだままアリシアを出迎えてくれた。
「先週ぶりですね、どうされました?」
「どうという訳ではありませんが、ただこの後何か起こるらしいので……ええぃうっ!?」
いきなり背後で発生した轟音のせいで変な声が出た、恥ずかしい。
とにかく日依の大きい方が予言し、アリシアを驚かせ、スズの笑顔を初めて崩し、小さい方を完璧に泣かせた、砲弾の直撃にも似た落着音の発生源を探して振り返る。見ればさっきまで隠れていた後涼殿は半壊し、何かが滑走したのだろう長大な抉れ傷が皇天大樹表面に残り、そしてその終点には暗緑色の物体が転がっていた。
「なにぃぃぃぃ…!?」
空から落ちてきたソレと、連鎖的に鳴り響く警報に案の定日依(小)は泣きながら右左に首をぶんぶん振り、まさかこの全身を装甲に覆われたトカゲみたいなのが将来一番の相棒になろうとは欠片も思わず、ギャグ漫画みたいに仰け反って(たぶん一瞬素になって)るスズに抱きついてしまった。装甲には目立った損傷無く、にも関わらず赤い血を噴き出しているのは落ちた衝撃か対空砲にでも撃たれたのか、まぁ撃つだろうな普通こんなのが飛んでたら。間も無く兵士達の大騒ぎと、ついでに嘉明の悲鳴も聞こえ、しかし現場に一番乗りしてきたのは短槍の少年だった。
「あ…待ってそれは!」
『止めんでいい』
数年後にはアルビレオと名付けられ赤の狐を背中に乗せる事になる全長5mほどのワイバーンを仕留めんと槍を突き立てる悠人へ咄嗟に叫んでしまったが、彼が止まる事は無く、かといってアルビレオが殺される事も無く、ただ槍の刃が根元近くからポッキリ折れるだけで悠人の行動は終了した。
『なにも出来やせんよ、殺せないから引き取ったんだからな』
自慢の槍が単なる棒へと成り果て呆然とする悠人を近衛兵が引っ張って離し、別の数人が頭部めがけてライフル弾を発射する。それも無意味に弾かれたばかりかスズのいる藤壺へ飛びこんで壁に穴を開け、慌てて全員が射撃中止、最後に隊長っぽいのが刀で斬りつけるも結果変わらず、高そうな業物を一振り喪失し狼狽してしまう。
「待ちなさい」
で、「だったら大砲持ってきて距離零射撃してやんよ!」などと話す彼らに対し、いつの間にか復活していたスズが静止、立ち上がって、わんわん泣きながら後退したがる日依(小)をなだめつつアルビレオへ近付いていく。
「どうして撃ち落としたのでしょうか」
「は…それは陸軍に問い合わせなければ……ただ私が見ていた限りですと、これは内裏上空を通り過ぎようとしていただけかと」
「なら大砲は必要ありません、代わりに医者の方を呼んでください」
「承知しました!……って医者!?これの!?」
改めて飛竜を観察する、それは腹部から血を流し、飛膜付きの両腕を右方向に投げ出した体勢で転がっていた。体はピクリとも動かないが小さくキュルキュルと喉を鳴らしており、スズが眼前で膝をつくと、気配を察したか目を開いて僅かに首を動かした。
「おねえちゃん危ないよぉ!」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「あううううぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
『あ゛あぁぁぁぁ!クソクソクソクソ!!』
大きい方と小さい方がそれぞれリアクションする中、彼女はいかつい頭部を左手で触って撫でる動作をするとアルビレオは目を細め、そしてどうにかといった風ながら体勢を直して立ち上がった。よろめくだけで地面は振動し、連鎖して周りの人間がひぃひぃ言う威容。それでもスズはまったく怯まず、差し出した手を舐められている。
「ごめんなさい、せっかく来て頂いたのに」
「あ…お構いなく」
「でもこの子、助かるかしら」
「そこは心配ありません、助からないとおかしいのですから」
出会ったばかりだというのに非常に従順である、これならスズに置き去りにされた後ああなるのも当然というもの。そのスズは立ってただけのアリシアに会釈を残して離れ、アルビレオ落着からおよそ5分、ようやく姿を現した嘉明へ手招き、挨拶でもお辞儀でもまして跪(ひざまず)く事も無くひらひら手招きしながら後涼殿方向へ。ひとまずここでのイベントは終了、スズの注意もアリシアから離れ、3度目となって兆候も掴めて来た、ニニギの早送り準備開始を感じながら。
「まずは人の目から隠しましょう、後涼殿に入れますよ」
「いや確かにこれじゃ使いもんにならねーけど…そしたら俺はこんなおっかねえのと同居に……」
「いつも寝ているばかりでしょうたまには役に立ちなさいな」
「はい……」
あ、そこの扱いは今と大して変わんないんだなと、最後にアリシアは思った。
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