第101話

午前4時、太陽が水平線から顔を出すまでもう1時間かかる。あたりは変わらず暗闇で、ぽつりぽつりと輝く街灯と、いくらかのもう目覚めて仕事を始めている家屋の明かりがゆらめくのが真上の枝に見えるのみで、放射状に伸びる枝の隙間は星が覆っている。早起きする理由の無い鉱夫達の住処である地表も未だ目覚めておらず、少なくとも人の動き回る音は聞こえない。ただしまったくの無音かというとそういう訳でなく、防風林に潮風のぶつかる音に付け加え、セーフハウスの眼前に広がる水田からゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコゲコと夜通し発情するカエルの大合唱が今も続いていて、静かどころかうるさい、うるさい。


「……む…」


多くの歌人がその美しさを読み残したという鳴き声も度を越しちゃったらただの騒音だなーなんて考えながら縁側に腰掛け、ランタンの明かりを頼りにプランジャーポットで紅茶を作っていた水蓮だったが、足音も無く急に現れた黒い少年を一瞥、ウッドランド迷彩の上着のポケットから折りたたんだ紙片を取り出した。昨日は客人をもてなすべくスーツだった上着以外の服装は着ている必要が無くなったため、いや連中の身分を考えるならむしろスーツどころか十二単でも足りないくらいであり、必要が無くなったというか、厳密にはラフな格好を要求されたからで、タイトスカートはフラットダークアースカラーのカーゴパンツに、ブラウスはネイビーのタンクトップに。


「今更だけど、こんな所でこんな事してていいの?私はアンタの家にとって明確な敵なんだけど」


「…………」


沈黙で語るとは正にこうである、家の事はどうでもいいと言わんばかりに水蓮の質問を無視、悠人は指示の書かれた紙片を受け取った。もういい加減こいつの無口さ加減も慣れてきた、慣れてはきたが、そうだとしても説明は必要だと思う。


「あの子と昔何かあった?」


「………………」


「答えないわよね、うん知ってた」


プランジャーポット、お湯と茶葉の入った円筒形のガラス容器に手を伸ばし、上部の棒を押し込むと内部で金属メッシュが降りて茶葉を底にまとめた。それを終えたら後はもうただのポット、紅茶をティーカップに注ぎ入れる。


「じゃあ…何か好きなものとかは?それくらいなら答えられるでしょ」


「……」


「なんでもいいから、喋る練習しとかないと将来困るわよ。アンタだって人間なら好きなもんのひとつくらい」


「…………カピバラ」


「え?」


「カピバラ……」


「…………え?」


少し、いやかなり、両手にカップとプランジャーを持ったまま固まってしまった。この鉄仮面が巨大齧歯類と戯れるシーンを想像しているうちに紙片の内容を確認した悠人はそれを握りしめ、やはりマジックよろしく消滅させる。


「……え…えーと…飲む?ヌワラエリア」


「…………」


「ちょっと?」


それが終わると何かを察して目をセーフハウスへ向け、水蓮が差し出したティーカップに目もくれず逃げるように背を向けた。途端に屋内でどたどたと足音が聞こえ出し、悠人の姿が完全に見えなくなってから数秒で背後のガラス戸が開け放たれる。


「…………いない」


狐耳を隠さないまま外に出てきたスズは右左と何かの姿を求めるも、その先にあるのは暗闇のみ。


「あら、おはようございます殿下」


「やめよ?そういうイジメやめよ?」


はいはい、言いながら縁側を手で叩く。急いで起きてきた意味を失ったスズを座らせると、持っているカップを置き、別のカップを持ち上げて紅茶を注ぐ。


「避けられてるわね」


「知ってる……」


裸足のため縁側から足は降ろさず、閉めたガラス戸を背もたれにして両膝を立てて座った。ティーカップを手渡した後、プランジャーは置き、古い方のカップに手を伸ばす。


「どっちが何をしたの?」


「…………」


「……ああじゃあ、質問を変えましょう、悪いのはどっち?」


「あっ……いや、あたしの実母」


「実母っていうと……」


葛葉という銀狐がいる、天皇不在の今この大樹で最も権力を持つ人物だ。彼女は側室、いわば愛人の立ち位置であるが、妻に当たる正室は長らく不在だった上、やっと迎え入れたかと思えば男児を1人産んですぐ病に倒れてしまった。ずいぶん病弱だったんだなーとただ思っていたが、彼女らの話から葛葉妃の性格を想像するに、おそらくそういう事なんだろう。

となると、悠人が水蓮に協力している理由は


「彼女は世界を牛耳って何がしたいのかしら」


「わかんない」


「あなたは?母を倒そうとしてるのはその”言えない理由”のため?」


「……わかんない」


紅茶という和名の由来となった赤い抽出液をじっと見つめて呟くスズに、まずおいおい…とは思ったが、根本的に担ぎ上げられるとはそういうものだ。彼女しか持たない肩書きでしか救えない者がいる、それも十二十ではない。世界の半分を占める地域に住む全員が苦しんでいると聞かされて、ひっくり返せるのは自分だけという状況で、立つ事を拒否できる人間はそう多くない。東の方に恨みがあったとかそういう訳でなく、守りたいものがあったとかいう訳ですらなく、ただ給料が良かったという理由でここにいる水蓮にとって、そのわからないという一言にどれだけの意味が込められているかなど理解のしようが無いのだ。であるが、理解はできないとしても、それを自覚する事はできた。


「そりゃ迷うよ、あいつのやり方じゃ裕福にはなっても幸福にはなれないってわかってるけど、でもだからってあいつを退かせば全部良くなるなんて確証はないじゃん。世界を変えたい!って強く思ってもいないし……そうだよ、気が付いたらここにいる」


「……私が聞いても共感はできないわよ?」


「だから言ってんの」


「あ、そう……」


とにかく紅茶に口をつけ、スズにも指で示して促した。幸い紅茶にはリラックス効果がある、当初の目的はカフェインだったが。


「……なんでこんなとこ来ちゃったんだろ…」


重症だ。


「そうねぇ、部外者の私があれこれ言う事はできないけど。何個か質問するなら、最初、隠れ続けるのをやめたのはどうして?」


「最初は……人が死んでくのをただ見てるって事ができなかったから」


「次、今この瞬間までその気持ちが揺らいだり、後悔した事はある?」


「ない」


空にしたカップを置く、代わりにプランジャーを持ち上げる。


「たとえば今やろうとしてる、あなたの母をあそこから引きずり降ろすのを諦めて、元通り身分を隠した生活に戻ったとしたら、ここまでやってきた事、助けた人、助けられなかった人、絞られながら生きる人、未練なく全部忘れて諦められる?」


「できない」


「迷ってないじゃない」


「…………あれ?」


狐につままれた顔を見ながら、冷たくなり出したスズのカップに紅茶を注ぎ足す。

迷ってない、というのは嘘だ。言葉のひとつふたつで解決できるほど人の悩みとは、特に彼女の場合は簡単なものではない、この後少し考えればやはりまた思い悩んでしまうだろう。だが子供騙しだとしても、納得できる理由のひとつになれるのなら。


「胸の内に抱えたままじゃそのうち心が擦り切れて壊れるでしょう。まだ他人の為に悲しむ事ができるのなら、少なくともこの世の中に疑問を持てなくなるまでは諦めない方がいいんじゃない?」


静かに暮らしたいだけにしたって、どうせならすべて終わらせてからにした方が気分良く暮らせるだろう。詳細を知らない水蓮に言えるのはその程度、ついでに自分のカップにも少し足して、さっきより濃くなった紅茶を一口。


「そのへん、しまい込んでないでもっと喋りなさいよ。あの赤いのはどうせ察してるだろうし、相談するなら私なんかよりあなたの義母の方が……」


「誰がお母さんで…くぅ…!」


「ん?」


二階の窓の方からなんか聞こえてきたな。


「起きてるんなら来なさいよ」


「………………」


寝たふりをしているのか顔を枕に叩きつけているのか、とりあえず、無かった事にしたいならあまり言うのもやめよう。


「えー……まぁ、いいわ、私から言えるのはあとひとつだけ。あなたの今の気持ちに偽りがないなら、私は協力してあげる。西とか東とか関係なく、あなたの為に」


全部喋り終え、聞いたスズは微妙な顔持ちだったが、少なくとも縁側に座らせた時と比べれば軽くなった。カップとプランジャーを両手で持って水蓮は立ち上がる。

茶を飲むのは終わりだ、もうそろそろ夜明けが始まる。

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