スペインの太陽 あるいはお風呂場のペンギン

 その月も、大家さんが集金という名の面談に来た。

 みいさんの甥の乾さんは毎月やってきて家をチェックし、私のバイト先でご飯を食べ、休憩に入った私から家賃を受け取って帰る。実質的な大家さんはこの人だ。

「マルタさんは、スペインに里帰りしたりしないの?」

「実家は電車で行けるので」

 私は日本生まれ日本育ち。英語もスペイン語もからきしですと日本語でスラスラ言える。

「ごめん、そうだった」

「全然いいです」

 雑談スタートは他の話を切り出す感じで、そっちの方が要警戒だ。

「あんまり言いたくないんだけどね」

 じゃあ言うな。言わないで。でも聞きたい。早く言え。

 絵コンテでがくがく揺さぶられてるとも知らず、乾さんは書類入れから宅配の明細を出した。

 婦人五本指ソックス、冷凍パイシート、クリームチーズ。

「こういうの、ちょっと控えてほしいんだ。良くしてくれてるのに悪いんだけど」

「……はい。甘えてしまって」

「違う違う。光世おばさんね、太ってきちゃって」

 みいさんは膝が悪く、手術してからも理学療法に通ってる。ビートルズ世代の運動量は減る一方で、食事は宅配の「ヘルシー御膳」だから、カロリーオーバーなら私のせい。

「喜んでもらって、考えなしに……。でも、注文してるのは私じゃ」

「おばさんにはもう話したよ。マルタさんにも、直接言おうと思っただけ」

 さすが実質的な大家さんは、万事に抜かりないのだった。

「こっちの都合ばかりだけど」

「いえ、膝、良くなってたのにすいません」

「それは年、年」

 いやいやドーモのラリーで、腫れ物に触るような面談は終わった。みいさんを横分けにしてフリース着せたら出来上がりの乾さんは、煮込みバーグセットに単品デザートも平らげて帰った。

 前の下宿人とは大音量の浪曲でモメたらしい。自室でヘッドホンをひっかぶったその子はノックに気づかず、みいさんが襖を開けてしまって、プライバシーだ何だ大変だったそうだ。

 おかげで補聴器は新調され、襖に外鍵が付きはしたけど、私はますます浪曲嫌いを言い出せないでいる。

「マルちゃん、大家さん帰ったー」

「はーい」

 私の休憩も終わり、食器の最終下げから戻った江口さんと、待機場所に収まった。

「あの人、胃薬飲んでたよ」

「はあ」

 白紙の私に、江口さんは声をひそめた。

「多めにオーダーしてくれてんじゃないの。マルちゃんがお店に文句とか言われないように」

 あっ。

 天を仰いだ。神様仏様ミューズ様。「乾さんもメタボ注意ですね」とか言うとこだった。やばかった。

「時間合うのがここしかなくて。来てくれるんですよー……」

「ただのこってり好きかもよ。気遣うね、大家さんて」

 どっちが? 乾さんが気遣いの人? 私がそうすべきって事?

「もう、日本語むずいです」

「てめ、ナニジンのつもりだ」

「日本人ですけどー」

 私のラテンの血は控えめだ。ハーフだからって期待されても、アニコスがめっきり映えなかったし。

『マルタは、ナニジンでいたいの』

 同じ質問をされて、軽く答えられない人がいる。

 マンガはやめたらなんて、みいさんになら言われても平気なのに。

 


「ペンギンてね、人を仲間と思って寄って来るんだって。南極で、立って歩くシルエットはペンギンに決まってるから」

「かーわい、シルエット判断かよ!」

 知らない合いの手がする。ネイチャー特番からの豆知識を披露してるのは理学療法帰りのみいさん。センターの娯楽室はテレビがつけっぱなのだ。だから家に帰ったらテレビはお腹いっぱい。

 知らないブーツの隣で靴を脱ぎ、むくんだ足をひきずって行くと、元気なお姉ちゃんを紹介された。私の前の下宿人。て事は?

「襖に鍵つけてもらったの私だよ、感謝して!」

 ヘッドホンのまま飛び出して以来音信不通。みたいなワイルドキャラで想像してたサワさんは、てんで円満転居の人だった。

「マルちゃんのパイ、おいしかった!」

「へへ、どーも」

 ……最後の一切れ、私が責任取ろうと思ってたよ。

 みいさんも決まりが悪そうで、二本出てるフォークを私も見ない振り。食べちゃったんだねえ。注意されたばっかなのに。

「そう再々は焼けなくなっちゃったのよね。私は構わないって言ったんだけど」

「いい匂いさせるだけなんて悪いですから」

「じゃあさ、バザーに出すとか!」

「それは恥ずかしいー」

 教会バザーはママたちの天下一武道会で、ケーキミックス使う人はお呼びじゃない。

「大丈夫、マルちゃんなら完売できる。うちのまれちゃんだもの」

「おー、パティシエ!」

「いやいや。お風呂いただきまーす」

 教会が紹介する下宿先を決める時、みいさんの名前を見たママは「世の光。長年下宿ボランティアしてらして、きっと素晴らしい方ね」と言った。

 みいさんは気の弱い、普通のおばあちゃんだったよ。「前の子とちょっとあってね」なんて恐ろし気なトラブルで釘を刺したりして。ちょっとあってどころか、息ぴったりじゃん。

 廊下を戻った。

「私、お菓子は趣味です」

「え、そうね」

「手動かしてなくなって終わり。ジョギングとか、お風呂と一緒」

「なるほど!」

 どうやらサワさんは合いの手名人だ。やばい。しゃべりすぎる。

「私の夢の事トンチンカン言うのはいいんです。アニメなんか知らなくて当然だし。でも他の下宿人の事、ヘンに言わないでほしい。私も事も同じように言うのかなって、思うじゃないですかあー」

「あらー」

「泣き虫マルちゃん!」

「ホラ言ってたあー」



 二人がかりであやされて、パイ食べちゃってごめんとかマンガ頑張ってとか、そういうんじゃなくてと首を振ってたら自分でもじゃあ何だっけとなり、「水分補給」とお風呂に送られた。

 ちゃぽーん。

 湯けむりの浴室はブリザード。遠くからペンギンがこっちを見てる。

 さばっと上がるとそれはシャンプーボトルで、ひとつ理解した。

 浪曲やめてください、トラウマなのでとみいさんに訴えるのはおかど違いだ。浪曲のモヤッとしたシルエットが何と似てようと関係ない。本質は何か。何が私を怖気づかせる。

 軽く答えられない質問を、私にする人。

 ぶつかるべきはその人だ。

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