世の光
歩く猫
照射するカロリー あるいはファミレスの三波春夫
お客様は神様です。
ある歌手がかつて言ったのは、歌なら神に捧げるように歌えという意味だ。
聴いているのは神なのだ。
目先の客の好きこのみをうかがうなんて、仕事に対する冒涜なのだ。
とか演説したところで私の接客評価が下がるだけなので、ここは私も目の前の客じゃなく、天に向かって歌声を作った。
「申し訳ございません。ただいまお持ちしますので少々お待ちください」
立て板に水。ベランダ掃除に蹴るヒャー。
足フェチの雄叫びと万能高圧洗浄機を思い浮かべて、ジャーッと言い流す。その方が気持ちに嘘が混じらない。
どうもーと言って、客は毛並みの方向になでてもらった猫みたいに、興味をよそへ移した。
「今日は怒られたー」
私の話したいオーラに、大家さんは浪曲のCDを止めた。
ビートルズ世代のはずの大家さんは、この大時代なストーリーテリング芸にハマってる。親世代が聞いてたのを思い出すんだそうだ。
涙の別れ。やくざ渡世。濃厚タイトルと張り合うのに私のエピソードトークは非力だが、やるしかない。千と一夜の静かな夜を守るため、物語するシェヘラザード。それが私だ。
格安の下宿には「高齢の大家さんと共有スペースを共有する」という条件があり、自室で孤食が常だった私も差し向かいの食卓に慣れてきた。ニュースと朝ドラしか見ない「みいさん」に、食べながら異世界バトルアニメ見ませんかなんて言う程にはなれてないけど。
「みいさん、リンゴむくけど食べますか」
「いい。全部パイにして」
「よしっと」
フリーザーから冷凍パイシートを引っ張り出す。
ダメだった日はお菓子を焼くのが私のリセット法だ。私が落ち込むと桶屋が儲かり甘い物が食べられるという芋ヅル式は大歓迎され、冷凍パイシートや缶詰あんこは「みいさんの奢り」としてストックが補充された。
リンゴは砂糖と少しの水でわーっと煮れば、あとはパイ生地と格闘してる間に粗熱が取れる。私は手を動かしながら、イチョウ切りより細かくされた、私の絵コンテについて話した。
「そう。課題、夜業して頑張ったのにねえ」
「やぎょ、……はい」
慰めの文脈は分かるので、新出単語はスルー。
「先生なんて話半分でいいのよ。あっちも自分の好みで言うんだから」
「ですねー」
パイ生地を細く切りながら、講師のネクタイもストライプ幅に切ってやる。血は出ない。斬鉄剣だ。
「私もやりすぎたんです。光を描きたくて、やたらキラキラさせちゃって」
「元気な坊やがキラキラして何が悪いの」
徹夜の高揚からついご披露したわけで、みいさんは拙作の最初の目撃者だ。
「ホラ、まぶしーって感じに六角形が並んだあれって、カメラのレンズによる光学現象なんだそうです。肉眼じゃああは見えない」
「へえ」
あっと思って、ネクタイの縞しか見えなくなった。
「このシーンは盗撮ですか。撮影者はどこですか。しつこいレンズの示唆にまさか何の意味もないんですか。もうもう立て板に蹴るヒャー」
「まあ」
たぶん蹴るヒャーがスルーされた。重要なのは、彼女も憤慨してるって事だ。
「ひどいねえ。いいお話だったのに」
「シナリオに絵コンテで変化をつける課題なので、お話は私のじゃないです」
昭和なオーブンに予熱を入れる。ぼむっと着火音がでかい。燃えろ。燃えてしまえ。
「現実にない物を表現できるのがアニメですよと。そこにあるのに何も表現しないキラキラは光のいたずら、光学ゴースト、幽霊って、呼ぶそうです」
「うん、ためんなった、ためんなった。豆知識ひとつ増えたから良しとしよ、ええ?」
みいさんが慌ててる。自分の声が震えてきたのは分かってて、ニッと口角を上げたら泣き顔の筋肉が反応した。決壊。
「あーあ。水分補給なさい」
座ったままのみいさんは手の届く棚からマグを出し、保温ポットからとぷとぷ注いだ。
「授業のお手本なら百点満点の人のにすればいいのにねえ」
「上手い人のは気が狂うまで模写するだけ。弱点さらけ出してる奴からこそ学べ。だそーです」
涙と一緒に全部出して、パイ形成に戻った。
「ファミレスもあって大変だ、マルちゃんも」
「賄いあるし最高ですよー。お客様は神様だろなんて人は、滅多にいないし」
「あら三波春夫先生」
「誰ですか」
手の届く二段目の棚はCDラック。歌謡浪曲大全集のジャケットで笑ってるのが、知らずに使ってた慣用句のソースとの事だった。
「歌謡界のスターだけど、もとは浪曲師なのよ」
「ほー」
歌謡が浪曲で何なのか知らないが、歌は神への捧げ物と言ったミューズの徒は、てかてか頭のおじさんだった。ギャップ。
「オリンピックは来るのかねえ」
サンタさんは来るのかなあみたいに言って、みいさんはCDをプレーヤーに入れてしまった。
「一曲だけね」
補聴器変えたら音量2でも聞こえるのよとドヤ顔のみいさんに、音量じゃなく曲調がダメですとは言えないでいる。ドスが効いてて立て板に蹴るヒャーのあれは、叱られてる気分になるんですよー。また泣いてやろうかー。
パイをオーブンに入れ、せめて換気扇をレベル5にした。負けじと音量3で始まったのはドスと言うよりのんきな盆踊りで、浪曲と歌謡曲の溝はますます謎だ。
「オリーンピックのハナナ、ハナ」
「ブオー」
時間帯を気にしなくていいのが一軒家のいいところ。
浪曲パニックも去って、一拍目が強い東京五輪音頭に「うん……うん……私大丈夫」とうなずきながら洗い物がはかどる。だってため息つこうにも、吸う事しかできないのだ。バター。バターが焼け始めた。
「ああ」
「いいねえ」
せり上がるパイ皮、表面には脂が泡立ち、煮リンゴの水気がまぶしい。カロリーこそ燃焼エネルギー、世を照らす太陽だ。光学ゴーストはここに入れたい。
二人ともひと晩なじませた方が好きなので、今夜は超絶いい香りの拷問に耐えながら寝る。その前に。
「どうぞ、端っこ」
「ヤッター」
小皿にバンザイされた。サンタはちゃんと来たようだ。
生地を上手に使うと端っこが出る。葉っぱ飾りとかにはせず、チーズをちちちと振りアップルパイ先生の取り巻きとして一緒に焼けば、一口パイの出来上がり。
「んんー」
夢見る乙女になったみいさんは鼻呼吸に集中してる。私もひとつつまんで口をつぐんだ。
「おんー」
生地を押し上げる何層ものバター。あったかいパイ生地は噛めばクシュッとかさが減り、ナッツクッキーが食べられない入れ歯の乙女にも優しい口どけ。
「あーおいし。マンガよりパティシエ目指せばいいのに」
みいさんにはジャパニメーションの将来性がピンと来ない。NHKが血迷って、アニメ業界を生きるオタ女子の半生をドラマ化しないかな。
「まれちゃんは冷凍パイシートとか使いませんよ」
「そうお」
アップルパイ御大はもう少し焼きが必要だ。二曲目、こんにちは、こんにちはと歌い始めた三波春夫先生は世界を見てる。
めげないメジャーコードに敬意を表し、換気扇をレベル4に下げた。
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