第6章 試験農場

六章① 未来

 塩水をこれでもかと吐いたサクヤは、荒い息をなだめるように横を向いた。水に浸った戦場の跡が、なぜか田植えの準備が整った水田に見えた。

 

 ようやく呼吸が落ち着いたサクヤは、肩をよじって上半身を起こす。

 そのとき気づいた。

 つる性植物で縫いとめただけの両腕と、裂傷を負った左足に布きれが巻かれていることを。


「……どうして、助けてくれたの」

「もっと苦しんでもらいたいからさ」


 ボロボロのワイシャツ姿の田村が、壁に背を預けていた。なくなった袖はサクヤの包帯に変わったのだろう。

 下方から滝のような音。

 隔壁のすぐ横にある、踊り場のような場所に二人はいた。

 

 サクヤを救ったのは田村だった。

 窒息寸前のサクヤに口うつしで空気を与え、その後に力尽きたサクヤの足を鉄骨から抜き、ここまで押しあげてくれたのだ。


「さんざっぱら邪魔してくれたんだ。これでリタイアじゃあ腹の虫がおさまらねぇ」


 隔壁と内殻に挟まれた空間に満ちていた水位は、見ている間にも下がっていった。学区への浸水は免れそうにないが、被害は最小限で済むだろう。


「あんたのおかげで擦りむいた程度で終わっちまったが……見ろよ、それでも街は血を流したぜ。この痛みの押しつけ先はおたくらだ。わかってんだろ、木花咲耶姫神このはなさくやひめのかみ?」

「一度くらい名前で呼んで」

「おれの名を、一度くらいちゃんと呼べたら考えてやるよ」


 両足を投げ出し壁に寄りかかっていた田村は、うんざりするような表情をしていた。

 体が冷えたのか骨ばった顔は青白い。サクヤもひどい顔をしているのだろう。視線を動かすのすらおっくうなほど疲れきっていた。

 

「では田村さん。あらためて……ありがとうございました」


 手をそろえることはできなかったが、できるだけ丁寧に頭をさげた。口を半開きにした田村の顔がおもしろい形に変わった。


「頭ぁイッちまったか? おれのせいであんたが責められるんだぜ。両腕ブッた斬ってまで助けた奴らは、寄ってたかってあんたの両足をちぎることはあっても感謝なんざしねぇ。結局ミコトサマは血を流し続けるんだ、同じ公僕として同情するよ」

「変えてくれるんでしょ?」


 ギロリと動いた田村の両目がサクヤを捕えた。これまできちんと見ることのなかった瞳は、不思議な色を宿していた。


「ミコトが必要なくなる世界を作ってくれるって、そう言ったわ」 

「アホかよ、そんな簡単に世が変わるか……いいやもう、めんどくせぇ」


 頭をかいた田村が床に寝そべる。

 倒れこむようにサクヤも隣に続いた。


「……山下のこと、あんたに謝罪するつもりはねぇぞ」

「あなたの仲間を手にかけたこと、わたしもあやまらない」


 そのまましばらく続いた沈黙を、騒音がかき消した。

 循環路をアマモで埋めつくされ排熱効率の落ちた動力機関がバイパス路を開いたのだ。これでアマモが消えても浸水することはないだろう。


「この手はきっとこれからも血を吸う。その人たちにもあやまらない。あなたは命を落とした人に向き合えと言ったけど、わたしはそんな強い心を持ってない……持って、ないの」

「なに、言って――」

「弱虫なのっ、笑っちゃうくらいダメなの! もういっぱいいっぱいのちっちゃい器。昨日まで泣いてた、今日も泣いた、きっと明日も泣く、いまだって泣いてる……見ない、で」


 元凶になに話しているんだろうと思ったが、止まらなかった。伝えたい相手が田村なのか自分なのか、もう届くことのないだれかなのか、サクヤにはわからなかった。


「自分で精一杯の身にできることは、わたしでいることよ。最後まで桜木サクヤでいることを誓います。首まで血に染まろうと、二度と枯れたりしません」


 もう二度と――つぶやいたサクヤの意識がふっと遠のく。

 その街にはアキがいた。

 一緒にサクヤも歩いていたし、対面の歩道には村瀬とナミもいた。通り過ぎた車を運転していたのは田村だ。助手席に座っていた金髪はヴィーナだろうか。


 ちがう。

 小柄な少女はアキではないし、隣の黒髪もサクヤとは違う。よく見ればだれもが別人だ。

 

 これは、百年後の世界だ。

 サクヤに似ただれかがミコトなのか、そもそも桜木なのかさえわからない。田村の願った世界なのかもわからない。でも百年後だ、ぜったいに……。


 そこで引き戻された。続きを知りたかったが二度と見せてはくれまい。

 気力をふりしぼって下半身に活をいれる。よろける身を両膝でささえ、棒になった腕をぶら下げながらどうにか立ち上がった。


「立って。街を壊そうとした者と守りきれなかった者にけじめをつけるのは、わたしたちじゃないわ……田村さん?」


 寝ころんだ男は返事をしなかった。

 相手の腰のあたりに赤い染みを見つけたサクヤは、あわてながらも膝を使ってどうにか田村をひっくり返した。


「あなたケガをっ!?」


 背中から腰にかけて深い傷が内臓まで達していることは、素人目にもわかった。

 水中で鉄骨に挟まれながら無傷でいられた理由を、サクヤはいま知った。命をもらった相手は奇跡でも運でもなかったのだ。


「……まだやること、あったんでしょ?」


 田村が答えることはついになかった。相手はすでに息をしていなかった。


 ぺたりとその場に座りこんでしまった。

 この男のせいで大切な命が消えた。サクヤはかけがえのないものを失った。なのに怒りが湧いてこない。仇がとれた、そんな自己満足のかけらでよかったのに、胸に去来したのは喪失感としか呼べないものだった。


「わたし、行きますね……」


 倒れこみたくなる身体を動かしたサクヤは、不意に意地悪を言いたくなった。こっちだってさんざん手を焼かされたのだ、最後くらいはいいだろう。


「わたしが唇を許した男のひとは、あなたが初めてなの。次に会うときは、人口呼吸以外をしてくださいね」


 きっとものすごくいやな顔をしているだろう男をふり返ることなく、苦労して立ちあがる。このまま眠ってしまいたい衝動を断ち切り一歩を踏みだす。どんなにつらくとも止まることはできない。


 背中は押されてしまったのだから。

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