五章⑪ サクラサク

 歯を食いしばって左足を何度もこじる。肉が裂け水中に血が漂ったが、鉄骨から足が抜けることはなかった。

 がぼっと唇から大量の泡があふれ、サクヤは最後を悟った。


 ナイフの一本でもあれば、残された時間を左足の切断に使っただろう。けれど手に刃物はなく腕も動かない。強度があるツタも生めない。


 けれど魂までは屈しない。

 まだ目が残っている。

 たかが海水ごとき、視線で押し返してやる。

 

 止まれ戻れ出ていけ出ていけ街から出ていけいますぐにっ! この命をくれてやる。木花咲耶姫神の血を残らず吸わせてやる。だから、だか、ら……。

 限界だった。サクヤの肺はあと五秒かそこらで海に侵されるだろう。


 くやしかった。

 死の恐怖も窒息の苦しみもどうでもよかった。戦えないことがたまらないほどくやしかった。一太刀も返せないことが無念だった。約束を果たせなかったことが心の底から――。


 ありえないものがあった。

 

 目のまえに漂っていたのは、桜の花を模したプラスチックの髪止め。

 アキの髪止めは持ち主と一緒に埋葬された。サクヤがこの手で棺に入れた。だからこれは、出来の悪い先輩を見かねた後輩が生んだ幻だった。


『世界で一番長い言葉を知ってますか?』

 

 あった。

 消えゆく意識は在りし日に飛んでいた。あのときアキが見ていたものは、水槽を泳ぐ魚でもカラフルなウミウシでもなかった。

 

『もぉ、一緒に水族館行ったときに教えたじゃないですかぁ』

 

 ひとつだけ、あったのだ。

 だけど息が、息、が……あと、十秒でいい、から、おねが…………ああ、わたし……なんで、ここに、いるんだ……ろ………………――──ッ!?


 ぐいっと首根っこをつかまれたサクヤの唇がふさがれる。強引に相手とつながった口から命が吹きこまれる。その唇をむさぼるように吸った。だれがこんなことをするのかわからなかったが、もはやどうでもいい。

 死の淵から戻った瞳には、過去の日に水槽の中で伸びていた緑しか映っていなかった。

 

 竜宮りゅうぐう乙姫おとひめ元結もとゆいはずし。


 世界で一番長い言葉なのだとアキは教えてくれた。

 お姫さまの髪を結んでいたヒモの切れはしなんだねと、ヴィーナは言った。

 

 ここが竜宮城なら乙姫はアキで、ヴィーナに導かれたサクヤは浦島だ。ならば咲かせてみせよう、海の姫君にふさわしき花を。

 水底に視線を集中。そこに切り札が生まれる。

 海に没した戦場、その沈んだ砂地からとがった葉が伸びる。

 

 リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ。

 

 長大語の別名を持つそれは、アマモと呼ばれる顕花植物。細長い葉はイネに似るがさもありなん。アマモはイネ科と同じ単子葉類、コンブのような藻類ではなく花を咲かせる種子植物なのだ。海中で育つアマモは、特殊な膜タンパク質によって細胞内のナトリウムを排出――最後の日に後輩が見ていたのはアマモだった。

 

 頭の隙間に埋もれていた埃まみれの記憶は、アキが出してくれた最後の目だ。彼女が仕込んだサイコロは、やる気のない運命の女神に最終ゲームでピンゾロをふらせた。

 一のアラシは五倍返しがルールだったが、今日から千倍だ。

 

――海水ごときが

 

 水流になぶられていたサクヤの髪が、極細の蛇となって一斉に逆立つ。


――アキを、ヴィーナを、桜木を、この街のミコトをっ、


 ありったけを注ぎこんだサクヤの脳内を火竜が駆けぬける。スパークしたニューロンが雷鳴を連れ立って発火。炎の中で出産した木花咲耶姫神こそは火神。

 

――なめるなぁっ!!


 激烈な意思がイオンの津波に変換。絶対命令が神経を疾走し水中へ放射、海水の壁を激震させる。この身に宿るのは、火山すら鎮める水神でもあった。

 

 怒れる女神の指令にアマモの節くれだった地下茎が一気に伸びる。数十の緑葉が海中で茂り、新たな地下茎を生む。

 雌伏の兵団がいま、反撃の雄たけびをあげた。

 

 数百、数千、数万と連鎖発生したアマモは大群落となって乱舞、この空間の床を埋めつくし内壁の割れ目に侵入。海水の牙城へなだれこんだ騎兵は千億の槍を放つ。循環路内を踊り狂いながら増え続けた海草は、学区内の循環水路を完全に塞ぎきった。

 

 勝利の美酒に酔いしれていた水の怨嗟の声が、はっきりと聞こえた。

 数多の命を食い損ねた海に片足をがっしりとつかまれたサクヤの唇は、かすかに笑みのかたちをつくっていただろう。

 

 わずかに残された時の中で思う。

 羊飼いにはなれなかった。

 その器もなかった、力もなかった。わかっている、だけど、

 

 あれただろうか。

 いまはただ、それだけを思った。

 

 一本の朽ちかけた杭として。

 一枚の穴だらけの板切れとして。

 

 老いた狼を困らせる程度の柵として。

 冷たい風をどうにかしのげる壁として。

 

 ただ一夜、羊たちの寝床を雨から守る屋根として。

 

 そのくらいにはあれただろうか。

 肺の中身を燃やしきったサクヤは答を探してあたりを見回した。


 アキの髪止めはどこにもなかった。

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