五章⑩ 決意
「――かはっ!」
天井から伸ばしたつる性植物を身に巻きつけ、なんとか首だけを水面に出したサクヤだったが、塩水をかぶった植物はぶちぶちと切れては再生を繰り返している。
塩辛いを通りこし、苦みしか感じなくなった海水をいやというほど飲んだサクヤは、つる性植物を制御するかたわらで周囲を見回した。波に呑まれた田村の姿はどこにもない。
内殻と隔壁に挟まれた空間は、巨人が水遊びをするプールと化していた。
壁にぶつかってしぶきをあげる波は、いまこのときも高さを増している。田村たちは外海から破滅を呼びこんだのだ。
「あと、一メートル……」
動力を壊され三メートルで止まった隔壁では、これ以上の海水を押しとどめることは不可能だ。残り一メートルを切った壁を乗りこえた水は波涛となって市街地を襲う。そうなれば学区を仕切る大隔壁の爆裂ボルトが弾け、この区画は強制的に隔離される。
街はそれで助かる。
だが第六学区は海で満たされる。なにもかもが水中に沈む。
はたして生徒の何割が逃げられるのか。
つる性植物を巻きとり、自身を空中まで引き上げたサクヤは眼下の渦を見つめていた。
もはやできることはない。
陸生植物を意のままに操るサクヤだが海藻―─海産の藻類――は無理なのだ。
木花咲耶姫神の能力ではコンブやワカメを生みだすことは不可能。塩に弱い植物しか操作できない能力者では救助もままならない。むしろ救助が必要なほどボロボロだった。
両腕は最初の狙撃手と戦った時点で使い物にならなくなった。つる性植物で縫われているのは外側だけ。筋繊維は糸状の根でつないだだけなのだ。癒着する間もなく一度の戦闘で繊維がちぎれた腕は、ぶらさがっている飾りだった。
腕の切断で血も失った。車椅子生活で弱った足はふらつきながら立つのがせいぜい。先の戦闘では細いツタを足に巻いて、動きをサポートしていたのだ。
能力は役に立たず、歩くのがやっとのありさま。ここは退き、被災した六区の復旧に尽力すべきだろう。
最善の答を出したサクヤは隔壁の向こう、薄闇の彼方に見える校舎を目に焼きつけた。
「……カナイ姉さま、あなたの妹はどうしようもないほど弱虫です」
敵と味方。両方を救うため敵地に渡った桜木カナイの心情など、サクヤには理解できない。もしわかっても真似なんかできない。
いまさら強くなることなどできない。弱いのだから。
虚勢の鎧を信じて進むこともできない。弱いのだから。
だから頼ろう、すがろう。妹が姉に泣きついてなにが悪い。
「この身にカナイ姉さまの血が少しでも流れているのなら……あと一歩だけ前に進めて。わたしはアキの先輩でいたいの。合わせる顔はないけれど、それでも先輩って呼ばれたい」
上半身に巻きつかせていたつる性植物をサクヤは何度かためらい、そしてついに切った。
落下はひどくゆっくりと感じた。
末路は溺死以外にあるまい。震えるほど怖い、泣き叫ぶほど恐ろしい。土下座して助かるのならよろこんでそうする。けれど、
――せんぱい あたし守った
小さな身体が全力で守った場所だった。最後まで逃げずに助けた人々だった。
その想いまで死なせやしない。こんどこそ救ってみせる。
少女の意思も、この街並みも。
渦巻く水の中へサクヤは身をおどらせた。
くぐもった響きに包まれた世界の中で、ひときわこもった音源へ目を凝らす。裂けた壁の下方から細かな泡が噴き出しているのが見てとれた。
破壊されたのは循環路の外壁――入りこんでくる海水は動力機関の冷却に使われた温水だ。冷たい取水側であったならサクヤ低体温症に陥り、ろくに動けなくなっていたはずだから。
運ではない。神の気まぐれなどでは断じてない。先日の浸水事故で取水側が閉鎖されたこのエリアを浸水させるために、田村たちは循環路の壁を破るしかなかった。
――アキ、いまも街を守ってるのね。
床を蹴って水面に顔を出し、肺の奥底まで息を吸う。
水中に戻ったサクヤは海底となってしまった場所に土が残っていることを確かめて、そこにツタを生やした。緩慢にしか動けない触手を操作し、近くに置かれた鉄材を破砕孔に詰めようと……荷を持ちあげた緑の蛇が、根元からぶつりと切れた。
力を失ったツタが海中を流れ去ってゆくさまを、歯ぎしりで見送るしかなかった。
植物は塩分に弱い。ナトリウム濃度による浸透圧によって細胞膜が破壊、水分が引き出され枯死してしまうからだ。例外はあって、たとえばマングローブ植物であるヒルギダマシの仲間は排塩腺と呼ばれる、塩を排出できる器官を備えている。
それでもヒルギダマシは海中では育たない。マングローブ植物のテリトリーは淡水と海水が混じった汽水域の泥場であり、葉や幹のほとんどは地上にある。
なによりも最悪なことに、サクヤは耐塩性の植物を作ったことがなかった。
必要も機会もなかったせいだが、まったく知らないものをサクヤは作れない。姿かたちをイメージできないものを創造できるわけがない。
けれど……知っているはずだ。
これまで生きてきたどこかで、一度くらい目にしたはずなのだ。
思い出せ。無理なら考えろ。
それでもダメなら動け。
いまできることをやれ。
ヴィーナならどうした。言葉より先に手を動かす、あの食いしん坊ならなにをする。いつだってなにかを食べていた──。
『この葉っぱしょっぱい!』
脳裏に瞬いたのはキラキラと輝く葉。名をアイスプラント。
表皮に塩類を隔離するための
放射状に伸びた、シルエットだけなら小松菜にも似た姿を正確に思い描く。
海中にねじれた厚い葉をもつ植物が出現した。
サクヤの意思で生まれた緑はイメージどおりの葉を広げ――あっさり流されていった。アイスプラントは水耕栽培が可能なだけであって、水中で育つ草花ではない。水流に抗える形をしていないのだ。
予想できた結果だった。
あんな葉っぱでどうにかなりはしないと、どこかで感じていた。だけど……サクヤは心の隅でいまだ尻込みする小さな自分を蹴っ飛ばした。
――それがなによ!
流されるならまた生んでやる。腕が動かないなら、ありったけのアイスプラントを足で挟んで穴に詰めてやる。そのまま口で壁をひん曲げて塞いでやる。歯が折れたらこの身で埋めるまでだ。泣き言なんか言うものか、絶対にあきらめるものか。
だって約束したのだ、救ってみせると――。
バギリという鈍い音が響き、次の瞬間、全身が壁に押しつけられた。水圧によって残らず出ていきそうなった肺の中身を、歯を食いしばって押しとどめ状況を確認する。
水流に屈した内壁が剥がれ、放置されていた鉄骨を巻きあげサクヤに襲いかかったのだ。
鉄骨が噛みあったことが幸いしたのか、サクヤは潰されていなかった。奇跡的に外傷もないようだ。
幸運の代償はすこしだけ。
たとえば左足が鉄骨の隙間に挟まれること。
死が決定されたサクヤをあざ笑うように、海水が勢いを増す。濁流となって流れこんだ海面は、ついに隔壁の最上部を越えた。
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