二章④ 彼女と彼女の肉体関係
壁の点検中に命綱が切れた。
ヴィーナが語ったのはそれだけだった。
おとなしく聞いていたアキが、ぴょこぴょこ揺れる髪の束をさわりながら首をかしげる。
「壁を点検してて、なんで海に放り出されちゃうんですか」
「ヴィーナくんが言っている壁とは、ぼくらが目にする内壁ではなく街全体を覆う金属、海水と接している
「フツーの仕事だよ? 私みたいに流されちゃうのはまれだったし」
他人事のようにあっけらかんと語るヴィーナへ、アキが疑いの視線を投げる。
「うん、わりかしマシな仕事だったな。下水の掃除なんて最悪、においにはすぐ慣れるんだけどあっちこっちかぶれちゃって、そこに虫が入るとやあ大変。でも私って運がいいから、全身やられるまえに仕事変われたんだ」
寄生中に蝕まれた痕なのか、ケロイド状になった脛を得意げに見せるヴィーナの前で、アキが蒼白になっていた。
ヴィーナのいた参番街には厳格な身分制度がある。これは秘密でもなんでもなく、街の多くは文化や社会制度を公言しているのである。
年齢がすべてに勝る
アキも知識として知っていたはずだが、実際に会うとは夢にも思っていなかったのだろう。
R25─303Txx─V009。
参番街において名前が番号の者は、下級層の出身であることを示している。危険でない仕事などヴィーナには与えられないのだ。
「私ってホント運がいいんだ。えーとアキちゃんだっけ? あなたくらいの背丈の頃はさ、たいした仕事もらえなかったからいろんなコトして稼いでたけど、ヤバい病気にならなかったもん。だから仕事の前にはみんな私の頭を叩くんだよね、幸運のおまじないだって」
あははと笑ったヴィーナは、自分の頭を手のひらでぽんぽんと叩いていた。
「今回はヤバかったけどね。ちびっと流されたけど、なんとか外壁に取りつくことができてホッとしたら、街は動きだすわ空気はなくなるわでホント死ぬかと思った。それにしてもよその街に来ちゃったとはねー」
「都合がいいにもほどがあるわ。真っ暗な深海でどんな手品を使ったのかしら」
「なーんもしてないよ、だって吸いこまれただけだもん。この街の
「当時の潮流と参番街と零番街の位置。そしてヴィーナくんの話を総合した結果、ありえない話ではないそうだよ」
シミュレーション結果が映し出された壁を
なにがこうも苛立たせるのだろう。たしかによそ者は嫌いだし同席するのも願い下げだが……後悔、だろうか。サクヤは思い出す。
あの日、サクヤはヴィーナの命を奪うに至らなかった。嘘八百を並べる工作員なのか本物の遭難者なのか判断に迷い、脅しにとどめた。
だがもしヴィーナが未知の伝染病にかかっていたら?
致死性の細菌を詰めたカプセルを体内に隠していたら?
少しばかり続いた平和に呆けてしまったのかもしれない。それはつまりサクヤが弱くなったということであり、この苛立ちはそんな不安の表れで……。
バカらしい。胸の内に吐き捨てた。
余裕以外のなんだというのだ。力なき者など排除する価値もない。
ではヴィーナが参番街の人間だと知っていたら?
同じことだ。哀れな遭難者くらい、笑って生かしておいてやる。過去の責任は
——ちがうわ。
自分そっくりな声がどこからか響いた。
愚かな指導者を祭りあげたのは住人でしょうに。九年前、事故を口実に攻めてきたのはどこの街か。そこに暮らしていた者が無罪か。手足をもがれた姉の苦痛はどれほどだったか。忘れるな、無残に殺された生徒たちの……。
「ちょっといいかな?」
ヴィーナがまんまるの目で覗きこんでいた。軽く頭をふったサクヤは相手を見つめ返す。
「たずねたいことあるんだけど……聞こえてる?」
「聞こえていますよ、わたしを侮辱すること以外は許可します。ああ、そこのにやけた殿方と、視力と男の趣味が手を取りあって下を目指しているメガネ女には好きなことを言ってかまいません。自分で気付けない欠点を知るよい機会でしょうから」
パキッと小気味いい音がした。
ペンを握る力加減もできないとは困ったメガネだが、残念な点がありすぎてこの程度は風のように許せてしまうから不思議だ。
「さっきからベタベタしてるけど、あんたら女同士だよね。どーゆー関係?」
「わたしとアキのこと? 見てのとおりよ、わりとドライな肉体――」
「カ・ノ・ジョですっ! あたしこのひとのカノジョですから! あたしたち農業科の先輩と後輩で、生徒会ではミコトと補佐官だからいつだって一緒なんです。おはようからおやすみまで同じ家に住んじゃってます。言っときますけど、あたしと先輩の間に入りこめる隙間とか一ミリもないですからね!」
「えーと……あっ、もしかしてアレな関係? そーゆーハナシ、聞いたことあるよ……なんかもったいないねぇ、どっちもかわいーのにさ」
意味不明なことを言いながらうなずいたヴィーナは、やがて大きなため息をついた。
「あーあ、これからどーしよ」
「どうすればいいかは椅子の置物が教えてくれるわ。わたしのおすすめは心中ね。メガネか男の好きなほうと一緒に窓から飛び下りるだけ。三人一緒もOKよ、むしろそうなさい」
またもパキッ。ペンを続けて二本もダメにするとはひどい秘書だ。
「はは、桜木くんの話は普通の人には理解できないよ。ところで置物ってぼくのことかい?」
ひどいなぁとぼやきつつ村瀬が襟を正した。うわついた昼行灯の瞳から鋭利なものが放たれる。そのまま村瀬は異街人を見つめ、やがて静かに告げた。
「残念だけどヴィーナくんが戻れる可能性は、きわめて低いと言わざるをえない。民間人一人の安否を確認するために参番街が接触を試みるとは思えないし、仮に返還要求があったとして応じられるかといえば否だ。われわれとしてもリスクは避けたい」
「えーと、あの、少しだけ近寄ってもらえれば……私の潜水服残ってます、よね? あ、ボンベに空気だけ――」
「はっきり言おうか。きみにそれだけの価値はない」
無情なセリフに驚いたのか、アキが村瀬とナミの顔を交互にうかがい、最後にサクヤを見たが誰も声を発さない。村瀬ジンは事実を述べているのだ。
「私……海に放り出され、ちゃうの?」
羽虫の声でつぶやいたヴィーナの膝は、小刻みに震えていた。
「まさか! そんなひどいことをするわけがない」
用意しておいたであろう笑顔に変わった村瀬が、仰々しく両手を広げた。
村瀬は使い道がよくわからない女を手なずけようとしている。もしかしたら次の回のフルハウスに使えるかもしれない。ただそれだけの理由で、ブタだったカードにまた来てくださいねと頭を下げているのだ。
「帰れないことを納得してほしいだけだよ。ヴィーナくんの安全は保障するし住居も手配しよう。もちろん仕事も用意させる。そうなった場合の権利は一般生徒とまったく同じだ。差別はないと誓おうじゃないか」
胸が悪くなる猿芝居だったが、奈落に突き落とされた直後ではコロリと騙されてしまう。
相手にどう写るか、己を知り尽くしているのが村瀬ジンという男だ。いやらしい役人根性の成せる技だが、政治家として優秀である証左でもあった。
「でも私、こっちのこと……なにも、知らない」
「仕事はおちついてからでいい。まずはこの街に慣れてほしい。というわけで桜木くん」
よそ者を一階まで送れというなら従ってやろう。窓から落とすだけだし。街を案内しろとのたまわったら、おまえがやれと村瀬を一緒に放り出すことにしよう。
校舎の壁を這うつる性植物を操作しかけたサクヤは、ふっと薄闇に包まれた。流されていた映像が消えた生徒会長室に、主の声がこだまする。
「当分の間ヴィーナくんと生活をともにするように。これ、会長命令ね」
ブラインドがカシャッと開いた。
射しこんだ光は、部屋とサクヤを白一色に塗りつぶした。
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