二章③ 乳娘リターンズ

 名前はR25─303Txx─V009――数字を羅列し始めた女に、サクヤはぴくりと右眉を歪ませた。


「エライ人は私のことV009ヴィーナインて呼んでたけどね」

 

 初対面の日とはうってかわって落ちついた口調だった。会長机の脇に立つ姿はサクヤより五センチは高い。この街の女子の標準体型から外れているのだろう。十一号制服が気の毒なほど似合っていなかった。


「や、ヘビ使いさんおひさー。元気してた?」

「お気づかいありがとうございますヴィーナインさん。解剖されて開きの標本になったと思っていましたが息災そうでなにより。申し遅れましたが桜木サクヤと申します。余生をショートカットしたいならヘビ使いでかまいませんけれど」

「ヴィーナでいいよ、仲間はそう呼んでたし。そっちもサクヤでいい?」

「ダメです。ぜんっぜんカケラも仲良しじゃないのに、桜木先輩を呼び捨てにしないで」

「かまわないわ。礼儀を知っているように見えないもの」


 皮肉に応じるつもりはないのか、ヴィーナと名のりを変えた女は首筋に手をやると黄昏色のウェーブを背中へ流した。ふわりと広がった黄金の髪にライトブラウンの瞳は、収穫期の麦穂を想わせた。

 

 起伏に富んだ胸を堂々と張る女の前で、サクヤは力をこめた視線を村瀬へ向けた。

 どういうことかと詰問きつもんしているのだ。

 事故による不幸な漂流者、というのがヴィーナの肩書きではあるが頭から信じられるものではない。村瀬やナミにしたって同じはずだ。


「流れ着いた『よそ者』の件だと予想はしてたけど、まさか当人を同席させるとはね」

「効率的といってほしいなぁ。話はいっぺんにすませたほうが楽だろう?」


 ケレン味たっぷりに村瀬が肩をすくめる。横を見れば事務机に収まったナミは無言でペンを走らせていた。書記に徹する気なのだろう。


「生徒会の支持率を地に落とした人間の口から、効率なんて言葉が聞けるとは思わなかったわ」

「厳しいねえ。ああヴィーナくん、気を悪くしないでほしい。桜木くんはちょっと気難しいところがあってね」


 よそ者呼ばわりなど気にしていないとでも言いたいのか、にんまりと笑ったヴィーナは直後、サクヤに向かってべぇっと舌を出した。


「ちょっと! ミコトである先輩にむかって――」


 サクヤが軽く手をあげると、渋々ながらアキは口を閉じた。


「では本題に入ろう」


 村瀬が告げると窓のブラインドが閉じ、部屋は薄闇に包まれた。


*     *     *


 暗黒に支配された深海にいびつな楕円が浮かんでいる。

 ゆったりと漂っていた楕円はときおり、気が向いたように向きを変えては止まる。水中をたゆたう姿は胎児を連想させるかもしれない。

 

 海水のベッドを泳ぐ物体は金属の皮膚をまとっていた。臓腑のかわりに空間を、魂ではなく動力機関をはらんでいた。驚くべきことに、雑多な生命すら内包していた。それはとてつもなく大きかったのである。

 

 街――自らが暮らす箱舟を人々はそう呼んだ。


 海水を電気分解することにより酸素と真水は無限に手に入った。

 海からとりこんだ魚介類や海藻は養殖され、主たるミネラルとタンパク源としてさまざまな食材に加工されている。

 

 海底油田から汲みあげた原油は燃料のみならず合成樹脂や繊維の原料となり、同じく海底に眠るメタンハイドレートからはエネルギー源となるメタンガスが大量に採取できる。そのための工作機器は長い時をかけて研鑽されてきた。

 しかしながら、元となる技術と機械が太古から存在していたことを忘れてはならない。完全な暦や時計が最初からあったと伝えられている。

 

 いつどこで街が造られたのか?

 一千万トンをはるかに超えると言われる排水量の超巨大建造物を、海しかない世界のどこで造ったのか? 空気なしで生きられない人類がなぜ水中都市で暮らしているのか?

 

 躍起になって解明しようとする者はいるが、住民の大半は気にしていなかった。

 神が創造しようが異星人の産物だろうが、我々は街の中で生きている。朽ち果てた過去が何をもたらしてくれるのだろう。生者には未来しか訪れないのだから。

 

 人と家畜と大地を抱き海中を往く街は、確認されているだけで十七を数える。

 うち、海底で眠りに就いたものが南洋に二、北洋に三。圧壊したそれらが目を覚ますことはあるまい。残った十二の中で推進機関の音紋おんもんが取れている街は五つのみ。あとの七は別の街からもたらされた情報によるものだから信憑性は疑わしい。

 

 本物の信頼を築いている街など、ひとつとしてないのだ。

 

 不可侵条約を結んだ友好街といえば聞こえはいいが、戦うのはやめときましょうね程度の約束をかわしたにすぎない。なまじ友好ゆえに油断し、侵略されることすらある。


 推進機関の故障。資源の枯渇。止まらない人口増加、あるいは減少。

 閉ざされた世界には破滅の原因などいくらでも湧いてくる。ならば敵の街を丸ごと奪い……海賊の呪いに憑かれた者を笑えはしない。明日はわが身なのだから。

 

 広大な海にはそのような街が五つ、そしてあるかないかわからない街が七つほど漂っている。世界は暗く冷たく疑心暗鬼に満ちていた。

 目の前のヴィーナはそのひとつから流されてしまったらしい。彼女の故郷は、この街の数少ない友好街だった。


「ヴィーナくんは『参番街さんばんがい』からきた。ああ、うちではきみの街をそう呼んでいるんだ」


 ヴィーナがうなずく。一通りの説明は受けているのだろう。彼女の表情に戸惑いはないが、はいそうですかと流すわけにもいかない。いまでこそ参番街とは友好条約を結んでいるが口約束に毛が生えた程度だ。

 村瀬にしたって忘れたわけではあるまい。死者が出た事件から十年も経っていないのだ。


「参番街からの漂流者……裏づけがあるんでしょうね」

「公海上の通信ブイを使って、情報交換をしていることは知っているだろう? そこにヴィーナくんのデータがあったよ。漂流者がうちの航路と重なるかもしれないとね」


 壁に投影されたデータを読んだサクヤは、薄暗い部屋で立ったままの女へ目をやった。


「救助についてなにもないわね。あなたの故郷はずいぶんとおやさしい街ですこと」

「流されるほうがマヌケだからねー」


 涼しい顔でヴィーナが返す。


「天沼くん、当時の航路を」


 村瀬がナミに合図を送ると、壁の映像が変わった。海図に赤いラインが描かれ、なぞるように『〇』と表示された楕円が動きはじめる。

 サクヤたちが暮らす『零番街ぜろばんがい』の航路だとひと目でわかった。楕円の中にある数字は航行速度を表しているのだろう。横にある数字はヴィーナを捕えた日付を示していた。


「二・五ノット? 歩く速さと変わらないじゃない。油田の調査でもしていたの」

「何者かの存在をすばやく察知したわが零番街は、細心の注意をはらったのさ。機関音は参番街のものと判明したからひと安心、友好街を尊重し航路をゆずったというわけだ」


 息を殺して相手が去るのを待っていたということだが、判断としては正しい。

 何事もなければそれに越したことはないのだ。


「判定材料は音だけ? 本当に参番街だったのかしら」

「ソナー室にいたのは水雷科すいらいかの生徒だよ。音響探査において、彼らの右に出るものはいないと聞いているけどね。実測員も出すべきだったという意見なら、伝えておこう」

「確認のために聞いたの。街一番の耳を疑う気は、わたしにだってないわ」


 含んだような村瀬の言い回しは気に食わないが、ヴィーナとサクヤが出会う前に参番街と接近したことは事実らしい……組んだ腕に知らず力がこもる。


「ここからはヴィーナくんにお願いしよう」


 黙って立っていたヴィーナに目線を送った村瀬が、湯のみをつかんだ。

 すっかり冷めてしまったであろう中身を、彼は表情も変えずに飲み干した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る