一章② 後輩>先輩(胸的に)

 歩道を歩くサクヤは日影に包まれた。隣を歩くアキが日傘をさしてくれたのだ。


「気温設定が今日から変わりました。午後からは常夏モード全開でーす」


 耐えがたい暑さと思えば環境変更日だったようだ。後輩が握る日傘の柄に触れたサクヤは、自分のほうに傾きすぎた傘をまっすぐに戻す。


「あたし暑いのへーきなんで」


 負けじと押し返された日傘がぴたりと止まる。アキの胸ポケットに収まっていた携帯電話が軽快なメロディを奏でていた。

 

天沼あまぬま先輩からだ」

「ナミから? 次にくだらない仕事をよこしたら吊るすって伝えておいて。おかげで農業科のうぎょうかの仕事がいつも遅れて……聞いてるの?」


 電話相手におじぎを始めた少女に肩をすくめたサクヤは、手が届きそうな空をあおぐ。数十メートル先の天井に埋めつくされた照明群が、夏の強い光を降らせていた。


「お昼どーします? サラダが絶品のお店見つけたんですけど」


 携帯電話をしまったアキが日傘を傾けながらたずねてくる。何度か押し返したものの結局負けて、サクヤが日陰を独占する形になった。


「アキの好きなところでいいわ。わたしはいらないから」

「ちゃんと食べなきゃダーメ。先輩はモヤシっ子なんだから」

「だめよアキ、そのような庶民ちっくなイメージをモヤシに抱くなんて」


 サクヤは右のひとさし指を立てた。


「モヤシはね、とても力持ちよ。新芽が押す力は育成マスの蓋を持ちあげるほどなの。なのにシャキシャキとした歯ごたえは上品で、力強くありながらも繊細で、若すぎたせいか糖質は少なかったけれど、それでも十分に甘かったわ」

「へ、若すぎた? それに育成マスって、まさか暗室のモヤシ……」


 ぽかんとしていた子顔がみるみるうちに色を失ってゆく。サクヤが両手を合わせてごちそうさまと告げると、アキは両手で頬を押しつぶした抽象画になった。


「種を滅菌めっきんしてからまだ四日目なのにっ! 成分とかぜんっぜん調べてないのにっ!?」

「ちゃんとメモしておいたわよ。アスパラギン酸とカリウムが多かったかしら? ビタミンCは控えめだったわね」

「へ、分析してくれたんですか。あれ? あのキカイ、故障中じゃ……」

「そんな面倒なことするわけないじゃない。味よ味」


 アキの左手に握られた日傘がわなわなと揺れる。彼女の右手はといえば短いスカートの中へ潜っていた。


「あたしたち農業科の生徒、ですよ? 生徒会役員である前にやらなきゃいけないこと、あるんですよ? 野菜を育てるのが仕事なのに、どーして片っぱしから食べちゃうのっ! こないだの促成そくせいトマトも! 結実けつじつポテトもっ!!」

「それはええと、あれよ。菜食主義のわたしに野菜を育てさせることがまちがって……」


 チキッと短く響いた音は、ガス銃の撃鉄が起こされたときの調べ。


「おなかすいてるんだ……あたしのゴハン残したくせに」


 燃料か野菜か。見分けがつかない炭焼きを喜ぶのは機関車くらい――と思ったが、よけいなことを口走ると命が危ないので、反省してますとばかりにサクヤはうつむいた。


 アキより背があるサクヤが下を向けば健康的な少女の鎖骨。視線をずらせば水色のブラに包まれた谷間……違和感を感じたサクヤは自分の溝間、もとい谷間を見る。

 おかしい。二人とも溝だったはず。

 もう一度アキを見る。自分と比べる。


――この子……成長、した?

 

 ささやがながらサクヤのほうが大きかった。そう、このあいだまで……いやまて、たかがカップで負けただけ。胸囲はサクヤのほうが──勝ったら完敗じゃないのっ!?

 錯乱する態度をしおらしくと感じとったのか、肩を落としたアキがしかたないですねとこぼした。

 

「また、種をもらってきますよ。だから先輩、お願いですからこっそり食べるのはやめてください。モヤシだけじゃ貧血に……へ? なんで泣いてるの!? ちょっと先輩、あたし怒ってないから、もう怒ってないから!」


    *     *     *


 公園のベンチに腰かけたサクヤは、渡されたドリンクをひと口含んで顔をしかめた。


「ぜんぶ飲んでください。残したら今日からおフロは先輩お一人でどーぞ」

「わかったわよ」


 掃除、洗濯、炊事は当然として爪切り洗顔エトセトラ。肌のお手入れから髪のセットにいたるまで、アキと暮らしてこのかた自分でやったことなどない。この制服だって、上から下まで着せてもらったのだ。


「ホントにもぉモヤシでお腹いっぱいとか……明日は健診だから朝からなにも食べられません、いまのうちに少しでも栄養とってください。採血のたびに貧血おこすんだから……もっと自分を大切にしてくださいよ、桜木先輩は特別なんですからねっ!」


 小言をBGMにひどい味の液体を飲みきったサクヤは、ほっと息をつく。ポプラの木陰になったベンチに涼やかな風が流れてきた。


「ねぇアキ、特別な存在になる方法を知りたい?」

「知りたくありませんが聞いたげます」


 よりそったアキは学生鞄からブラシを取り出すと、サクヤの髪を丁寧にすきはじめた。


「だれよりも強ければいいの。面倒なことは侍女がやってくれるしね」

「どこのだれかは存じませんが、頭蓋がゆるんだ人に侍女だと決めつけられてる下級生は、きっとたぶんほめられてるんですよね?」

「もちろんよ、これからもお願いね」


 緑が動いた。

 公園の花壇に植えられた、この時期ならどこでも見かける花がぐにゃりと茎を曲げ、花弁をこちらに向けたのだ。


 花たちはアキに手を振るように葉を揺らすと、サクヤが頭を垂れる仕草に合わせておじぎをした。訓練された動物のごとくふるまう花々を、アキは黙って眺めていた。


「……おやめください」


 ひとしきり花壇を見つめていた後輩がふり返ったとき、いつもの表情はなかった。

 いさめるものに変わった硬い声は、公の場での山下アキの口調。日常に見せることのないそれは、主従の関係をくっきりと浮かびあがらせる。

 

「おやめください。『ミコト』である御方が、人目ある場で頭を下げるなど――」


 鋭かった声が不意に止まった。

 怪訝に思い見ると、アキは痛みをこらえるように下唇を噛んでいた。


「……ダメですよ先輩。あたしなんかにこんなことしちゃ、ダメです。それに、これからはないんです。だって、あたし」

 

 いつもの後輩に戻った少女の手の中でヘアブラシが揺れていた。


「来月なんて、急すぎますよね。大事なことってじっくりと見極めなきゃダメだって、会長も言ってたじゃないですか。問題、ですよ」

「アキ?」

 

 要領を得ない会話に隣を向いたが、後輩は先を告げようとしない。サクヤもそれ以上問うことはせず公園に植えられたポプラを眺めた。


「……午前中、人事科じんじかに呼び出されました」


 人事科はクラス編成などに関わる学科ではあるが、いまは進級の時期では――すぐに思い当たった。いずれ来るだろうと予想していたことだ。


 サクヤのような能力を持たないアキは、学力によって生徒会入りをはたしたのである。一年四期生という若さで生徒会役員となった者は、これまで数えるほどしかいない。


「農業科から機関科きかんかへクラス替えだって。エリートコースよ、よかったわねって。なんにも知らないくせに」


 ポケットに手を入れたアキが、くしゃくしゃになった紙切れを地面に叩きつけた。


「行動力と決断力に優れ、工学知識も高く……こんな紙っぺらでなーにがわかるんですかって、バッカじゃないの!」


 その叫びに花壇の花が揺らぐ。緑のざわめきを聞いたサクヤは瞼を閉じた。


「先輩だって困っちゃいますよね。洗濯機の使い方、知らないですもんね。だから……『ミコト』である先輩なら、生徒一人の編入先くらい」


 アキ――唇から出たのは、自分でも驚くほど冷たい声だった。

 優れた力は『街』のために使われなければならない。個は全のためにのみ存在する。


「生徒会の仕事は今月いっぱいで終わりね、いままでご苦労さま」


『街』の駆動にかかわる機関科の生徒は、生活を徹底管理される。学科が変更になった以上、会う機会もなくなるだろう。

 なんのことはない。サクヤはいままでどおりの、アキは新しい仕事をするだけだ。


「誇りなさい。『街』を動かせるのは選ばれた者だけよ」


 肩を抱くとアキが嗚咽をもらした。その背中が小さいことにいまさらながら気づく。うっとうしかった小娘を山下アキとおぼえるまで、どれくらいだったろうか。


「たまにでいいから顔を見せて。あなたが植えた花はいつだって待っているから」



 夕方とくくってしまうのもためらわれる時刻、ベンチで重なっていたシルエットが動く。アキが泣きはらした顔を、サクヤの胸からゆっくりとはがす。

 涙をぬぐった少女はいつもの顔で微笑む。その笑顔ごと抱きしめてやる。


「あの先輩、こんな明るい場所で……だれか見てたら」

 

 アキがそわそわと周囲を見回す。


「……だれもいませんね」


 上目づかいの後輩はサクヤを正面に見据えると、桜色の唇を突き出した。


「こんなに明るい場所で? わたしが頭を下げるより問題じゃなくて?」

「へいきです。続きは暗い所でしますもん」


 顔のすべてを赤く染めたアキが目を閉じる。食べてしまいたい相手に顔を寄せ――唇がふれあう直前、耳をつんざく警戒音が大気を切り裂いた。

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