第6話いじめにまつわる根本的な問題を考えること
僕が学生時代中に受けたいじめに対してその時取った行動というのが、「イジメは無くすことはできないんじゃないか、それならば逆に自分から歯向かっていって、暴力でも暴言でも受けてやろうじゃないか」といったものでした。
そもそも、学校のイジメなんか無くなるものではない。学校に行ったことのある者なら誰でも分かるだろうと思う。理由は分からん。たぶん、人間というものはソウイウモノであるとしか言えない。
結果、僕はイジメられた。しかし、イジメられたのは自分と、自分の友人二人もだった。僕はそのクラス内での自分の友人たちに「みんなで苛められたら怖くはない。みんなだと、痛みも緩和する」と言ったら、大層、いじらしく微笑んでいた。
ところで、いじめの根本的、根源的な問題とは何だろう? この世界からいじめを一切なくすというテーマのことだろうか? 僕はそれは少し違うと思っています。だって、それは絶対に無理じゃんって思ってしまうのです。じゃあ、今。今、どこかで誰かに苛められている子供が一人もいないのであろうか。そんなことはない。では、今までだって大人が苛めの問題について動いたり、訴えたりして、この世界で、ひと時でも苛めがなくなっていた時があったのだろうか。それは僕にも分からない? では、僕が苛められた時の傷が今になってなおっているのだろうか。
だから、僕はいじめの問題に関してはこう思う。別に暴力、暴言など受けて良いのだと。確かに暴力を受けた時の衝撃、その瞬間は嫌なものだろう。でも、他の友人たちと一緒に受けたら、絶対に痛みは緩和されます。なにがイケないかって、いじめを無くそうとしようとすること。これだけはね、苛めっ子は怖いんです。それはそれで実際にそうなんだから十分に気を付けたらいい。
あとね、友達がワルな人なのは気を付けた方が良い。ワルというのは基本的には告げ口、弱い者イジメ、なんでもありだからね。自分のことを真面目だと言っている人を友人にしよう。それはね、『正義』の一環なんです。『正義』というのは僕の造語みたいなもので、従来からある正義という言葉に真面目や善という意味を作り変えた言葉なんです。小学校高学年くらいから僕はこの自分の造語を使って、生きています。
私も幼稚園の時はワルでしたが、しょうもない駆引きはもうたくさんだ。何が喧嘩だ。だから、父と相談してケンカをやめる約束をしたんです。そういう暴力の強い奴らがエスカレートして大事件になるのです。でもね、殺人事件なんかは極刑やら死刑やらでそこそこわだかまりが無くなるぐらいには解決するものです。法が入るんですね。ちなみに、みなさんは「いらんこと」を言われたり、やられたことはありますか。学校でです。あれ、けっこう嫌なんですよね。え? それは別に気にしていない? そうなんです。そういう態度を取ることもすごく大切なんですよね。
皆様、もうご理解頂けたでしょうか。苛めは自分から進んでやられにいきましょう。でも、それは決して一人でではなく、複数でやられましょう。一人だけになりそうな場合は絶対にやめましょう。そして、苛められるタイプの友人を作りましょう。きっと、その人は心の美しい優しい方だと思います。思想家の吉本隆明さんという人が言うには、苛めっ子というのは『人間』で、苛められっ子はというと『人間以上』の存在なんだと宮沢賢治が童話でそう描いていると仰っています。
それだけは言っておきたく、この文章を書かせて頂きました。
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