第7話なぜ、今、正義なのか

 僕は卑しい。

 こう書いても何のことか分からないか。僕は心が汚く、醜い。何を言い出すやら、そんなところだ。つまり、僕はそのことを自分でよく分かっていて、また認めている。嫉妬だってするし、ごまかしもするし、恥ずかしい話、威嚇して相手にショックを与え、自分に有利な展開に持っていくこともするかも知れない。ただし、それは認めている。


 しかし、僕は根本的にはそうでないと思っている。自分の本質は誠実であると信じているのだ。これはプラス思考の価値観だ。だから、自分の「卑し」い部分を認めもするが、本当は思いやりのある、心の美しい人間だと思いたいというか、正直にそう考えている。実はそこが重大なポイントで、そこが僕の考える『正義』という概念に繋がってくるというわけなのだ。


 僕が考える『正義』とはいったいどういう意味で、そこに何のメリットがあるのだろうか? まず、上の二段落の文章で言いたかったことは、人間――という言葉を一体これまでどれほど使ってきただろうか――の「清」い部分を率直に肯定して良いんじゃないかということである。「真面目」であることは素晴らしいことだ、とか「善」というものは「悪」より尊いものであるというように。


 ここで僕のいうところの『正義』について整理してみよう。考えているのは『正義』の活動の最終目標は全世界の「平等」である。平等主義である。それは最後、指導者の平等で完成されるだろう。あと、「悪人」との平等化であるが、それはこれから長い年月をかけて、ゆっくり和解すれば良い。それでも、指導者は最後まで生き残らなきゃならない。それが僕であるはずもないのだが、プランぐらいは大体練れる。


 とにかく、あなたの周りの友人たちにあなたの考える『正義』について喋って聞かせてはくれないだろうか。普通の一般市民の人たちにはかなり小さな「グループ」しか存在しない。それこそプロの文学者にでもならないと数多くの聞き手は得られないのだ。だって、そうだろう。ツイッターだってフェイスブックだって、そんなに都合の良い聞き手は見つからないだろうし。


 あなたの思う『正義』というのはあなたの考える『平等』と言っても言い過ぎではありません。そして、「メリット」についてです。『正義』のメリットについては、宗教が科学的ではないと言われるのと同じように、科学的であると論証できないうちは、『正義』にはメリットがあると断言できないのではと思われます。決して宗教ではないので、いつの日か必ず勝ち組になる日が来るであろうと僕は信じています。なぜなら、『正し』いからです。『正し』いことはメリットよりも凄まじいものがあります。僕は正義が正しいと考えています。そして、僕は悪が憎たらしい。それだけ、自分は正義であると納得がいくのですからね。

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正義論集成 だざいおさむし @geragetter

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