第5話essayと低迷

 私は何者だろうか。そういう書き出しから始めたのは他でもない、自分が「文学者」なのか「それ以外の何者」かであるのか、はたまた最近流行りの「ブロガー」と呼ばれるものに属しているだけなのか、自分でも決められない「曖昧」さが今の自分をかたちづくっている成分のような気がして、いささか心配である。


 何が心配かというと、ツイッターやミクシィやこの『カクヨム』に登録させて頂いて、文章を投稿してもう何カ月も経つが、いまだに誰かに自分のしていることを評価されたことも褒められたこともないのではないか。その孤独感が私の心に空洞をあけたのではないかと思われる点が、ただいま心配だ。


 むろん、私は自ら「文学者」のような文章を志す気もさらさらありませんでしたし、かと言って「ブロガー」であるなどとは口が裂けても言いたくなかったのでした。と言いますのは、自分には主張したい事柄が既に存在していまして(つまり、『正義』論なのですが……)私はその事柄を、文学者のように語ることはできない性質のものだと分かっていましたし、それこそSNSでも書いてはいますが、いまいち腑に落ちない。ですから、敷衍しますと、そのことが不安(心配)であるとするならそういうことだと思うのです。


 そして、その『正義』論を展開するためのツールとして、エッセーというジャンルを選びました。それがちょうど良かったんです。自己満足でいえば百点でした。しかし、肝心な読者の評価というのがひどく伸び悩んだことも事実です。けれども、自分に納得がいくかどうかが一番「鍵」でしたので、人の評価は二の次だと自分に言い聞かせてここまできました。私はただ、甘えて寂しがっているに過ぎなかったのかも知れない。ただ、どうしても孤独というのは楽しいことの終わった後におとずれるものです。私の場合もそうだったのかも知れません。


 ところで、私にとってのエッセーというものを考えてみよう。私は「善」、「正義」、「真面目」といった主題を『エッセー』(随筆)という形式を借りて発言しているとする。すると、ここでもまた不安を浮かび上がらせられるいくつかの疑問にぶち当たる。それは「エッセーは文学ではないのか?」とか「エッセーとしての理論を知らないでいいのか?」とか、自分にとっての弱点もないことはない。しかし、そのことに反論するとすれば、私は「矛盾を肯定したい」と考えている。矛盾や理不尽なことをそれはそれで認めた上で、全肯定したいのだ。矛盾を恐れて、真っ正直な主張を折ってしまうことは危険であるといいたいのだ。


 それから、小説でも、詩でも、哲学でもない、そういうものがエッセーだとしたら、今までの自分のしてきたことは一ミクロンは意味があったのではないだろうか。いや、そんなこと誰かに聞いても分かるものか。最初にも言ったとおり、自分自身が納得しさえすれば、それは善しとしていいのだ。反対に誰かが褒めてくれても、それが自分に本当に納得がいかないのであれば、それは駄目なのである。ちなみに私は色んなエッセー作品があって良いと思う。そうなってくるとまた、矛盾を肯定するだの不意味発言に戻ってしまうので、ここではどうしても避けておきたい。(もう一度同じ接続詞を用いらせて頂くと、ちなみに私はポストモダン的な、いや、アヴァンポップ的な、いや、そのどれでもない表現を使ったエッセーを一応、試みて書くようにしている)。

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