第4話『文学』さんへ
文学さんへ
例えば、「今、それをしたところだ」という文章があるとします。それは「今」で「ところ」の意味はすでに果たしている。だから、「今」と「ところ」を一つの文に両方併せて使うのは文法的に間違っているのではないだろうか? もし、なんらかの理由があるとすれば、それは「口語文」と何か関係性がないだろうか? こんなことを考える。
それと「です・でした」と「ます・ました」の組み合わせです。どちらかが何回か続くと少しおかしい気もするし、交互で書いてもきっちり過ぎる。この二つ以外の文の終わり方もあるので、そこは工夫するべきだと思いました。
こう考えると、文章っていったいなんだろう? と疑問に感じる時も少なくないですが、やはり私も一介の文学者として「文」を非常に意識していますし、意識しているがゆえに不思議に思えることがあります。しかし、文の秘密はこれだけに留まらないはずです。きっと私が知らないこともありますし、また私などが皆様にお教えできることなど何もありはしません。逆に皆様には私に教えることはあると思います。それはたぶん「文学」でしょう。
私が絶望におちいった時、あなた方は私を励まそうとしてくれます。そして、それは私にとって救いとなり、ありがたいことだと解ります。それが「文学」なのです。自分にはそんなことはできない。いや、別のやり方でそれを実践しています。それは「正義」という考え方です。これまで何度も何度も主張してきた概念ですが、私にはこれ以外のメッセージはありません。それは同じように「励ます」ことをします。しかし、それは文学とはまた別個なのです。なぜなら、頭の中で「文学」を思って励ますのか、「正義」を思って励ますのかで、違いが出るからです。そして、それは私にとっては文学より愛おしいものなのです。しかし、皆さまにとってはあまり信頼できないものだと思います。そこが私の悩みどころでもあります。仮に、それを勧めると「宗教」になってはしまわないかと不安になるのです。私は決して「宗教」を軽蔑しているわけではありません。ただ、宗教を「信じる」か「信じない」かの自由が、その「宗教」の中に含まれているかということなのです。だから、布教活動はやはり良くないという考え方を持っています。布教活動は多くの人を不幸にします。私は「正義」を通じて「真の自由」を追求しています。それは、どんなありとあらゆる「自由」も『自由』に選択できなければならないということです。私自身もやりたいようにやること、その自由を行使しています。しかし、そのやりたいこと、伝えたいことというのは例えば、「節制を保つこと」という内容の言及です。それは少しニュアンスが違うと思って頂ければ、これに勝る喜びはないと言っても過言ではありません。
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