第3話悪い文学

 私は小さい頃から妙な習性があった。例えば友達同士で言い合いになって、相手の男子に告げ口され、教師に自分だけこっぴどく叱られたり、ある時はある女子から「分からず屋」だと罵られる。またある時は挙手して先生に当てられると、お調子者の如く、笑いを取りに走る。まあ、よくある事かも知れない。しかし「自分は真面目なのに、どうして癖が悪いんだろう」と思う事は妙と言えば妙である。だってそうだろう。自分は真面目に学校生活を送って来た。いや、間違えた、送りたい意志が十分にある。なのに、自分の取っている行動はまるで逆でなんだか、悪みたいだ。真面目なのに…。そういう生徒はよくいたのだが?ときっと疑問を持つ人がいるかも知れないが、私の場合は極端だった。私は真面目すぎた。そして、私はワルかった。


 それにしても、書くのは愉しい。たとえ純文学であろうと、書いているとやはり癒されるものがある。私は自身の文学を嫌っているが、それでも愉しい。書いていると、私なりのアイデアが下りて来るし、それはいたって単純なアイデアだから、書きやすいということもある。


 私が書くものは通常に文学と呼べる代物ではない。だから、それは「書くことが全くない」人と同じであるとも言える。私は何も書いていないのか?しかし、一つだけ言えることは「文章を書けない」というのとは違う。そういう意味で私は、何かを書いている。書くという動作を媒介しているのは、文学者と同じである。書いて在るかどうか。私はいったい何を表現しているのか? それはそう言えば正義であった。けれども、それはもう何処かに書いた。正義を唱える事は文学であろうか。それがもし文学であるならば、私も文学者という事になる。ただ、肝心なのは、作品を書くこと。ずっとずっと書き続けることが出来たら、立派な芸術家だという事になるであろう。


 問題は「文学とは何か」ではない。問題は「なぜ、私だけ文学者ではないのか」である。私は常々「自分はどうも文学者ではない。文学者ではない気がする」というような事を主張して来た。そして、割合、それはいいことであるとも言ってきた。そういう主張をする中で、次から次と生まれてくる沢山の作品を読み、でも、私のような作家は誰一人としていなかった。


 私はただただ孤独であっただけだろうか。自分という一人の人間が、生まれ育ち、考え悩み、両親がいて、弟がいるという環境の中で、どういう人格を形成されてきたか、あるいはそこにどういう意味や価値があるのか、それを書くべきなのではないだろうか?


 というわけで、エッセイを書くことに決めたんだ。え? 唐突? いいかい、文学は唐突なものなんだよ。エッセイは唐突に僕らの前に現れる。僕らはそれを感じ取り、思考する。文学は頭の中で出来上がる。それは外部には出せないものなんだよ。

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