第2話小洒落た作品

 以前にツイッターで誰かが「自分が面白いと思う作品を書かなきゃダメ。まずはそこから」的なツブヤキがあって、なるほどと思った。私はこのサイトでこれまでに書いた4つの小説やエッセイたちを、読み返せなかった。自分をややいじめて書いていたからだと思う。それはずっと善いことだと思っていた。しかし、考え方を変えなければならないかも知れない。自分の書いたものに嫌悪感を抱いて、さらに人から無視せられ、どこがいいのであるのか。私はとりあえずは自分が幸せな作品を書かなければならない。自分1人だけでも、幸せになったら、まだマシなんじゃないか。どうせ、身を削ってまで書いても、箸にも棒にもかからないことは目に見えているんだから。


 自分が好きだと思える作品を書くこと。それが作家の宿命だ。


 しかし、私は本当に小説やエッセイを書いているのだろうか? 前に書いた作品には自分は「エッセイスト」だとは公言している。私は小説家ではないが、エッセイストではあると。でも、本当の所は、文学としてのエッセイを書いたつもりはない。ならば、私は作家なのか? クリエーターであるのか? それも、作家としての職業という意味合いでは行っていない。ひょっとして、私は「デザイナー」かも知れない。デザイナーと言うのは普通、ファッションデザイナーや美術家の事を指すが、私はそれを言っているのではない。小洒落た文章をしたためる人、そんな感じだ。そういう意味でのデザイナーはあるのかも知れない。ところが、私は「正義」を書く人だという確信のほうが強い。考えている「正義」については書かなければならないと思っている。でも、それは絶対に革命ということではない。ちなみに政治の正義とは違う。真面目を正義とするならば、その正義のことを指す。つまり、善だ。反対は悪だ。しかし、厳密には正義の反対は悪ではない。善である。口語という形では悪の反対を正義と呼んでもいいと思う。もう一度言うが、僕が言っている正義というのは、真面目や善のことだ。


私は正義を書く人、だ。書くことについては肯定的なのである。


だんだん、また読み返しづらい文章になってきました。今、気付きましたが「タブー」を犯して書いているからじゃないかなと思うんです。ああいう内容の正義論が、です。そうでした。私は出来るだけタブーを無視して、ぶっちゃけて書こうとして来ました。それはタブーを何度も何度も書くことによって、タブーの普遍化を狙ったのでした。普遍化によって、タブーが無くなる。タブーは差別と関係があるのではないか? 少なくとも、言葉の差別とは関係があるものと考えています。それは前々から文章でやりたかった事です。私が再読に嫌悪感を感じていたのにはそういう理由があったのか……? それが解ると、納得が行ったのだった。


――――結局、正義とはいったい何ですか?

はい、私がお答えします。私があちこちで主張している「正義」というものは、まだ文化的ジャンルとして成立していません。なので、傍から聞くと、妄想癖のように思われるでしょう。しかし、私は私の信じている「正義」というものの主張をやめる気はありません。それをやめる事は、正義を放棄する事になるのです。正義とは。正義とは私自身でもありますし、あなた自身でもあります。正義の最終目標は平等化です。平等になれば、正義という概念は跡形もなくこの世界から消え去ります。ところが、この世界がそうなるとはとてもじゃないが、思えない。だから、面白く盛り上げようじゃないかというのも一つの「正義」なわけです。


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