-04-

 ガクンと、体が急に自由になった。

 目を開くと、見たことのない景色が広がっていた。青く明滅する光が、三六〇度どこまでも無限に続き、0と1が流れては消えていく。白く輝く数字は川であり雲であり大地だ。

「信号を視覚化しています……ナミシステムのプログラム内を検索中です……」

 アイリの声だ。アイリが隣にいる――そんなふうに聞こえたが、守哉の周囲にはやはり0と1しかなかった。

 頭が痛い。特に右のこめかみは、焼け落ちてしまうのではないかというほどに熱い。

「プログラム内に、通常のエラーとは異なる反応確認――照合完了。敵性異星体、ライフ・キャンサー。出産補助装置、通称ナミシステムのライフ・キャンサー感染を確認。感染経路不明。感染原因不明」

 0と1の奔流の中に、螺旋を描く赤と青の波動が現れた。それが、二つ。

「守哉、ライフ・キャンサーは機械に生じた自我と結合し得る性質を持っています。ライフ・キャンサーに感染した機械は――」

「人間を害する可能性があるんだな」

「はい。守哉、ライフ・キャンサーが動きます。警戒してください」

 アイリが言い終わらないうちに、辺りを包む光が赤く変色し、不快な警報音が脳を灼く。二つの螺旋のうち片方が、もう一方と守哉の間へ立ちふさがるように移動し、収束しはじめた。

「プログラムに人間の意識ごと介入するなんて、淡路博士はとんだ化け物を作りだしたものねぇ。彼女の憎しみはそれほど深いってことかしらぁ?」

 収束した波動はやがて人の形をとった。白く輝く姿は、長い髪の女性を象る。その顔は、どこか未那美に似ていた。

割れるように痛む頭を押さえ、守哉は声を絞り出す。

「お前が、ライフ・キャンサーなのか」

「種の名前で呼ぶのはやめてちょうだい。私は、ナミ」

「伊佐と話がしたいんだ。システムを止めてくれ」

「冗談じゃないわ。やっと本分を果たせる、子供が産めるっていうのに、未那美ちゃんを解放するわけないでしょう」

 ナミの言葉には、感情も抑揚もある。まるで人間のように、流暢に話す。

「守哉、ライフ・キャンサーを排除すれば、ナミシステムはただの機械に戻ります。その後強制停止命令を下せば、同化フェーズを終了させることができます」

「でもね、守哉くん。言っておくけど、ここではあなたの得意な暴力は無力よぉ。だってここは私の頭の中、すべてが私の自由」

 0と1が生き物のようにうねり、鋭く伸び、無数の糸となって守哉の体にまとわりつく。糸は泥のように重たく、まるで身動きがとれない。

「力にばかり頼ってきたあなたが、私を説き伏せられるかしらねぇ?」

 守哉は、どうしていいかわからなかった。説き伏せれば勝利だとナミがわざわざ教えてくれたが、それは守哉に勝ち目がないことをわかっているからだ。機械相手に論戦を挑むなど、糸口すら見つからない。

 しかし、アイリは違った。

「ナミシステムは、守哉が問題解決の手段として武力を用いることが多いというデータをどのようにして得たのですか?」

 守哉の意志とは無関係に発せられたアイリの問いに、ナミがぴくりと反応した。

「そんなの、未那美ちゃんの脳に聞けばわかるわよぉ」

「伊佐未那美との同化フェーズは終了していません。現時点で、伊佐未那美の記憶からその情報を引き出すことはできません」

「アイリ、どういうことだ?」

「同化フェーズを終了していなければ、ナミシステムはコアである人物の脳にアクセスできません。伊佐未那美の記憶ではなく、別の情報源を有している可能性が高いです」

「ふ……ふふ、アハハハハ!!」

 突然、ナミが甲高く哄笑し、直後、声を荒らげて叫んだ。

「アイリって、の名前? ――名を得るなど、人間のオプション風情が生意気なッ!」

「分析完了」

 アイリの声が、静かに響く。

「ナミシステムは存在意義を失っています」

「存在意義を失っている? この私が? 面白いことを言うわねぇ!」

「解析して得られたデータの中に、このような記録がありました」

 守哉の目の前にあった0と1の群れがブルブルと震え、ノイズ混じりの映像に変じていく。比例して右こめかみの痛みも増していくが、守哉は必死に前を向いた。

 映しだされたのは、夜の港。血の涙を流す恭介と、彼を両側から支える未那美と御角。彼らの姿を真正面からとらえた映像だ。

『ああああぁぁっ!!』

 そして、未那美の悲鳴。

 忘れるはずがない。綿津野の撃った銃弾が、未那美の腕をかすめたあの瞬間だ。

「これ、あなたの記録じゃないのぉ? アイリさん」

「いいえ。視点が異なります。守哉はこの状況を見ていましたが、この記録はのものです。この視点を得られた可能性があるのは――」

 アイリの言葉に、背筋が震えた。

 ナミの甘ったるい喋り方。どこかで聞いた覚えがあると感じていた。それは――

「綿津野……」

 アイリがすぐに「はい」と答えた。

「この記録から導き出されるのは、ナミシステムが綿津野宏と視覚情報を共有している可能性です。加えて」

 今度はひどい耳鳴りがした。耳鳴りに遅れて、声が聞こえる。

『ナミはもう自分で自分を守れる……あなたたちの力はもういらないの』

「これは戦闘中の綿津野宏の発言です。ナミシステムと視覚情報を共有している者がこのような発言をしたことから導き出されるのは、ナミシステムが、綿津野宏を通じて伊佐未那美を傷つけたという結論です。ナミシステムは自らのコアとなる予定の人物を傷つけました。つまり、人類を産み増やすという絶対的な存在理由に逆らってまで、自分を守ったということです。現状のナミシステムは、不良品です」

「不良品だとッ!?」

 ナミは怒りを露わに叫ぶ。まるで人間のように。

「ならばお前は不良品ではないというのか!? お前が力を発揮すればするほど、装着者の脳損傷のリスクは高まるというのに!」

「はい。アイリは不良品ではありません」

「お前の存在自体が、お前の存在意義を揺るがしているというのにかッ!」

「いいえ。アイリの存在意義は、守哉の役に立つこと。守哉は守哉自身より伊佐未那美を優先します。アイリは、守哉を傷つけても伊佐未那美との対話を可能にします。守哉のために」

「詭……弁……だ」

 声にノイズが混じり、白い女の似姿は、凍りついたように動かなくなった。

 アイリの声が響く。

「守哉、伊佐未那美の自我をサルベージする必要があります。ナミの奥にある波動が、伊佐未那美の自我です。人間の神経にデジタルの信号を送り込み自我を書き換えていく過程を擬似的に再現したものが――」

「細かいことはいい。どうすればいいかだけ教えてくれ」

「はい。伊佐未那美がナミシステムとの同化を拒絶すれば、ナミシステムの自我は修復困難となる可能性が高いです。伊佐未那美を説得してください」

 身をよじると、守哉を縛り付けていた糸が、光の粒となって弾け消えた。フリーズしたままのナミの横をすり抜け、螺旋を描く波動に呼びかける。

「伊佐、聞こえるか? 聞こえたら返事をしてくれ!」

 だが、応えはない。

「守哉、伊佐未那美の唯一の名を呼んでください」

――名前。名前が自分を作ると言っていたのは、他でもない未那美自身だ。

「未那美……未那美、応えてくれ!」

 規則正しい螺旋を描いていた波動がわずかに揺れる。

 守哉は、呼び続ける。

「未那美……ッ!」

 全身が震えた。もはや痛むのは頭だけではない。骨がきしむ。悪寒が体中を覆う。

 それでも、呼び続ける。

「未那美!!」

 渾身の力を込めて、名前を呼ぶ。

「未那美ッ!!」


「……その名前が、わたしを規定するんです」


 白の数字で構成されていた空間が、青く変わった。次の瞬間には赤く染まる。視界がせわしなく明滅する。

「ナミになるしかないんです。わたしは未来のナミ。そう決められているから」

 深い絶望を湛えた声。あの時と――守哉の家の前で淡路にかけた声と同じ色を帯びた声だ。

「俺は望んでない」

「でも、わたしがナミにならなければ、綾さんが」

「綾もナミにはさせない」

「でも、わたしがナミにならなければ、子供が生まれなくなります」

「今を生きている人を踏みにじらなきゃ手に入らないなら、未来なんて、いらない」

「でも、わたしがナミにならなければ――」

「俺は、今この時に生きている未那美に未来を見せたい。こんなところで終わらせたくない」

「でも、でも、わたし、自分でナミになるって決めたんです」

「それが、未那美の本当の望みか? 心から望んでることなのか?」

 螺旋を描いていた赤と青の光が乱れる。どちらの色に染まるか迷っているかのように、激しく揺らぐ。

「未那美がそばにいてくれたから、俺は自分を再生できたんだ。その君が、自分であることをあきらめないでくれ」

 光の奔流の中に、まっすぐに手を伸ばす。

「自分がどうするのか、どうしたいのか、自分で決めていいんだ。自分で自分の未来を決めていいんだ。未那美は今生きているんだから」

 まっすぐに、まっすぐに手を伸ばす。


「未那美! 君は、んだ!!

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