-02-
海沿いの道を駆け抜けて十数分。二輪は、真っ白に塗られた六階建てのビルの前で止まった。
「ここだ」
神威ノ宮出生省の省舎は、行政の本拠とというよりも、研究所という方がしっくりくるようなたたずまいだった。
「中はどうなってる。警備の奴とかはいるのか」
「今日は全員に自宅待機命令を出してある」
「周到な根回しだな」
「絶対失敗できないからな。ベストを尽くしたまでだ」
「……アイリ。オーダー、索敵だ」
「オーダー受理」
聞こえる鼓動は二つだけ。おそらく、未那美と伊佐修司だ。綿津野がいないのが気にかかる。それから、地面の下から聞こえる大きな音。まるで沸騰するマグマのような。
「地下には何がある?」
「ナミシステムだ。未那美もそこにいるだろう」
そう言うと淡路は、守哉を――正確には、守哉の右こめかみを見た。
「アイリ、か。補助頭脳に名前をつけたんだな」
「あんたも、禁忌だって言うんだろ」
「まあな。だが、名前は存在を形作る要素の一つ。お前が必要だと思うならつければいい。アイリ、かわいい名前じゃあないか」
「恭介がつけた」
「そうか、恭介と和解できたなら安心だ。……さあ、行くか」
ガラス戸を押し開けて、淡路は出生省の中へと踏み入る。守哉も、それに続く。
高い天井、連なったカウンター、その奥のデスク群。誰もおらずがらんどうではあるが、まさしくここは役所だ。正面玄関から遠く離れ奥まった場所に、上階へと通じる階段がある。
〈この先は職員寮です。二階には食堂や休憩室が、三階より上には職員達の私室があります。守哉の部屋は、四階に位置しています〉
階段を上っていくと、各階の廊下は鍵のかかったガラスの扉で閉ざされていたが、淡路はしっかりと鍵を持っていた。扉が、守哉を招くように開く。
〈手前から三つめが守哉と鹿島恭介の部屋です〉
アイリの言うとおり、その部屋の入り口には『鹿島恭介・天橋守哉』という表札が掲げられていた。かつて守哉がここで暮らしていたのは間違いないらしい。
木目調の引き戸に鍵はかかっていなかった。取っ手に手をかけると、心臓が早鐘を打つ。
「恐ろしいなら、代わりに開けてやるぞ」
「……大丈夫だ」
緊張をごまかすように力を込めると、引き戸はがらりと音を立てて開いた。
左右の壁にそれぞれ寄り添うベッドと机。部屋の真ん中を陣取るテーブル。必要最低限の機能しかない小さなキッチン。
「そうだ。ここが、俺の部屋……」
夢で見た風景がよみがえった。頭に包帯を巻き、うなだれる自分。心配してくれる恭介。カレーのにおい。
守哉は靴を脱ぐと、ずかずかと部屋の中へ入り、クローゼットを探した。
「ここか」
ベッドの横の戸を開くと、替えの制服とコート、私服、鞄が乱雑に突っ込まれており、その中に、刀が一本、紛れ込んでいた。
「だから、どいつもこいつも短いって言ったのか」
手にした得物は、守哉の背丈ほどの長さがあった。握りしめた柄は、手にぴったりとなじむ。漆黒の鞘から現れたのもまた漆黒の刃だ。守哉の顔がはっきりと映りこんだ刀身は、光を滑らかに反射している。
「その刀は、お前専用に作らせたものだ。強靭だが軽くて薄い。
刀を背に負い、鞘にくくりつけられたベルトを胸元で締める。
どこか懐かしいこの場所に名残惜しさを覚える前に、淡路を追って部屋を出た。
淡路は躊躇うことなく階段を上り、六階へ向かっていく。
「ナミシステムは地下にあるんじゃないのか?」
「ああ。だが、行き方が特殊でな。一般の職員が自由に行き来できる場所にはないのさ」
階段を上りきった先には、六階の案内図が掲示されていた。T字型のフロア。曲がり角の先に第二執務室があり、残りの第一、第三、第四執務室は横並びだ。
「執務室なんて名前だが、この階は研究員の寮なんだ」
淡路は迷いなく角を曲がった。
「ナミシステムへ続く通路は、ここにしかない」
第二執務室の扉が、ゆっくりと開かれていく。
「なんだ、この部屋は……」
部屋の異様すぎる風情に、守哉は息を飲んだ。
まず目に入ったのは、部屋の奥の壊れた窓らしきもの。真っ黒な鉄板が打ち付けられているのに、その鉄板の真ん中に、無理矢理に壊されたとしか思えない大穴が空いている。パステルカラーの床の上に黒い破片が散乱していた。壁は天井まですべて本棚。ジャンルを問わず五十音順、ドアの真横から左回りに並んでいる。部屋の隅にあるベビーベッドの中には、男の子と女の子の人形が一対、たくさんのぬいぐるみと共に置かれている。ベッドの柵にはおんぶ紐がぶら下がり、近くにはベビーカーと木馬。大きなおもちゃ箱の中には、積み木と、色も形も様々なパズル。ベビーベッドに寄り添うように、天蓋付きの可愛らしいベッドがある。他には、お茶でもするのにちょうど良さそうなテーブルセットと、学習机。天井には宇宙を走る鉄道が描かれており、そこから垂れ下がった動物や星のモビールがくるくると回っている。
ここが、誰の部屋なのか――失った記憶に問うまでもなかった。
「ひどい部屋だろう。歴代のナミは、みんなここで過ごしたんだそうだ」
淡路は本棚の一角の前に立った。その棚だけ本の並びが五十音順になっておらず、ジャンルも育児雑誌や子供の命名事典など、子育てに関するものに限られている。
その棚にあって異彩を放つ、タイトルのない黒いハードカバーの本。それをを引き抜いた奥に隠されていたボタンを押し込むと、本棚が音を立てて移動し始めた。
「古典的だろう?」
棚が自ら左右に避け、隠されていた扉が姿を現す。象牙色に塗られた鉄製の扉は物々しい。淡路はためらわず扉に手をかける。ギギ、と不快な金属音を立てて開いた扉の先は、エレベーターホールだった。右手には非常階段と記された扉もある。守哉は無意識に拳を握りしめた。
「気づかれたくない。少々骨だが、階段で行く」
淡路はすぐに非常階段へ向かう。拙速とも思えるほどに速い行動からは、ひどい焦りが窺えた。
「……博士」
「どうした? しおらしい声を出して」
「心配しなくていい。伊佐は必ず助け出す」
淡路が驚いた顔で振り返った。
「お前なあ……私にまで気を遣うな。まあ、ありがたくないわけじゃあないが」
くしゃりと、どこか嬉しそうに苦笑した淡路が、何故か未那美とダブって見えた。
「……やっぱり、お前を選んで正解だった」
ナミシステムへと続く非常階段は、円筒形のフロアだった。螺旋階段が、下へ、下へと、どこまでも深く続いている。窓がないために中は薄暗く、下へ向かうほどに闇が濃くなっていく。
「お前でも、落ちたら死ぬかもな」
〈暗視モードオン〉
アイリが自動的に反応し、守哉の視界に輪郭が浮かび上がる。
「博士、俺ならここでもちゃんと周りが見える。あんたは俺のコートの色を頼りについてこい」
「助かる。ここの階段、経費削減で柵がなくてな。なるべく壁にそって歩くさ」
足を踏み外さないよう、ゆっくりと螺旋階段を降りていく。守哉も淡路も、何の言葉も発さずに、ただ沈黙の中を降り続けていく。
しばらく降りていくと、壁に発光塗料で『1F』と書かれている場所があった。つまり、ようやく一階の高さまで降りてきたということなのだろう。
不意に、淡路が口を開いた。
「守哉、お前、記憶を失っていたんだろう」
淡路の声には、はっきりと、後悔が滲んでいた。
「気づいてやれなくてすまなかった。綿津野のところで情報がすべて止められていたようでな……何もかも忘れてしまったのなら、お前は何故私と組んだのか、覚えていないだろう?」
「残念ながら」
「なら、もう一度昔話からだな……」
後ろにいる淡路の表情はわからないが、それだけに、憂いを帯びた声が悲しく響く。
「今のナミ親衛隊が結成されたのは一年前だが、その前の親衛隊が結成されたのは、十七年前になる。お前たちが生まれる一年前……つまり、お前たちの世代を産んだナミの親衛隊、というわけだ。そのときのナミのコアは、沢木……いや、
「伊佐……?」
「そう。先代のナミは、未那美の実の母だ。夫はもちろん伊佐修司。もっとも、彼那子がナミとなったことで二人は引き裂かれたわけだが……それでも、長官にはまだ未那美がいる。なのに、長官は未那美までもナミにしようとしている」
「……俺には、理解できない」
「私もさ。まあ長官が言うには、それが彼那子の遺言なんだそうだ。娘も自分と同じように、ナミとして、未来のために子供を産んでほしいとな。だが、私が彼那子から聞いた話は違う。自分がナミとなって最初に生まれてくるのは、自分の実の子供。幸せに老いていってほしいと。最初は父とともに、いつかは隣にいてくれる誰かと、一緒に年をとってほしいと」
闇の中に、二人の硬質な足音と、淡路の声だけが響く。
「だから、お前を利用した。長官の妄執から未那美を奪い取るために、お前に力を与え、お前が未那美と出会うように仕向け、お前を未那美の絶対的な味方に仕立て上げた」
「……それなら、綾がナミのコアになりえるって話は狂言か?」
「残念だが、本当だ。当初は、未那美を逃がしたあと、代わりのコアになってもらおうと思っていた。だがそれでは、あまりにもお前に対して不誠実だと思ってな。ところでお前は、自分の両親のことを覚えて……いないな」
「まったく」
「お前たち兄妹の両親は遺伝子工学者でな。ライフ・キャンサーに対抗する技術を開発するために自分たちの身体を実験台に使い、生まれてきた子供に抗体を残すことに成功した。それがお前の妹だ。天橋夫妻は綾さんを神威ノ宮に売り、莫大な金を手にどこかへと去った。お前の方はなんらかの人体実験に使うモルモットという名目で宮が引き取った。といっても、お前たちの世話は第六廃棄街の住民たちが責任を持ちたいと言うので、任せたんだがな。で、一年ほど前。十六歳になったお前を出生省へ勧誘。お前は妹を養うため、親衛隊員となった」
守哉には、淡路の言葉が飲み下せない。両親について聞かされても、何の感慨もわかなかった。
戸惑いを悟られないよう、ペースを変えずひたすら階段を降りていく。
「記憶を失う前のお前にも同じ話をした。そしてお前は、私と組んだ。妹と未那美を守るためにな」
「俺の置かれた立場が、博士にとって都合が良かったってことか」
「違う。他の四人にも、決定的な弱味はある。利用しようと思えばいくらでもできたさ。単に、私がお前を選んだ。親衛隊五人の中で、お前が一番情に厚かったから……要するに、いいやつだったからな」
「でもその頃のこと、俺は覚えていない」
「そうだとしても、お前は全然変わってないさ」
淡路の声はこれまでに聞いたことがないほどに優しい。なぜか、胸の奥がむずがゆくなった。
「守哉、すまなかった。謝ってすむことではないのはわかっているが」
「俺が、伊佐を救いたいんだ。俺の気持ちと、あんたの行動は関係ない」
「まったく。お前はそういうところがいいやつなんだよなあ……思うままにするといい。お前の行動の責任はすべて私がとる。責任をとるのが、大人の仕事だからな」
階段が途切れた。目と鼻の先に、蛍光色に光るドアノブがある。
「着いたな。さて、長官を説得できるか」
「どうしようもなければ、力に訴えるまでだ」
「それができる相手だったらよかったんだが」
不安げに漏らす淡路を尻目に、守哉は扉を開く――ナミシステムへと続く扉を。
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