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「……礼を言われる筋合いではないのだ」
恭介は、ひどく申し訳なさそうにそう言う。彼の罪悪感を拭うには、きっと時間が必要だろう。守哉はあえて触れなかった。
「俺の気持ちは、固まってる。だけど……」
何度も繰り返した問い。
「伊佐は、それでいいと言うんだろうか」
いかに守哉が望んでも、守哉の想いを未那美に押し付けるわけにはいかない。自ら宮に帰った彼女が、果たしてナミシステムの破壊を望むかといえば――
「守哉、出生省へ向かうべきです」
恭介以外の声にハッとした。話に割り込んできた補助頭脳は、先ほどと同じことを提案する。
「伊佐は自分からナミになると言ったんだ。今更俺が行ったところで……」
「守哉はそれが伊佐未那美の本心ではない可能性を考慮しています」
「……っ!」
また心を覗き見られた。だがそれは、可能性の考慮などではない。守哉の願望だ。
「守哉、目的は伊佐未那美の救出ではありません。伊佐未那美との対話です」
「……対話?」
「はい。守哉は、伊佐未那美を救出したいと望んでいますが、伊佐未那美がそれを望んでいるかがわからないため、行動を起こすことができないという状況に陥っています。この状況を打開するには、伊佐未那美の本心を知る必要があります。そのためには、出生省へ赴き、伊佐未那美ともう一度対話することが必要です」
「もう一度……伊佐と話をするために……」
どうしたらいい、という問いは、これまで幾度も繰り返してきた。その答えはいつも同じ――〈その機能は搭載されていません〉。
だが、今は?
「判断材料が少ない状況下で、守哉の行動の是非を決定する機能は搭載されていません。今回は学習により導き出したにすぎません」
「学習って、どういうことだ?」
「はい。守哉の行動と心理のパターンを学習しました。第一に、守哉は守哉自身よりも伊佐未那美を優先します。第二に、守哉は伊佐未那美のためであれば危険に身を投じます。第三に、守哉は守哉自身よりも天橋綾を優先します。第四に、守哉は天橋綾のためならば、自分を犠牲にすることも厭いません。第五に、守哉は、伊佐未那美および天橋綾の幸福と自分の望みを秤にかけなければならない状況に陥ると、苦悩しますが、最終的には必ず伊佐未那美および天橋綾を優先します。これらの要素から判断すると、守哉は、伊佐未那美および天橋綾の幸福が確保された状態で、守哉の望みどおりに事態が進行する可能性がある選択をすべきだという結論が導かれます」
右こめかみが熱い。補助頭脳が熱を持っているのだろうか。
「事態を傍観した場合、守哉の苦悩は解消されません。また、守哉が最も優先する要素である『伊佐未那美の幸福』が損なわれる可能性があります」
「伊佐の、幸福……」
「今のは、補助頭脳か」
「ああ、うるさくてかなわない」
うんざりと言ったつもりだったが、恭介の反応は意外なものだった。
「……私は、補助頭脳のことを誤解していたようだ」
「誤解?」
「補助頭脳なんて、お前の頭に取り憑いた化け物だと思っていた。お前の思考に割り入り、体を操り、心を病ませるものだと」
「間違ってないぞ、それ」
「そうかもしれないが、それはひとつの側面にすぎないんじゃないか。その子は常にお前の味方。何もかもすべてお前のため。ただ、機械だから加減がわからない」
「ずいぶん好意的な解釈だ」
「その子は感情のままにお前と敵対したりはしない……私と違って。お前を想う者の言葉、少しくらい聞き入れてもいいと思うのだ」
守哉は右こめかみを覆う盾に触れた。つるりとした強化ガラスで作られた、美しい盾。他人からは、黒く輝いて見えるのだろう。
その奥に異形のものが住み着いているというおぞましい感覚は、もうない。
「何もせず後悔するより、行動して後悔するほうがましか」
ふう、とひとつ息をつき、守哉は思い切った言葉を口にした。
「……補助頭脳、すまなかった」
しかし、補助頭脳の答えはそっけないものだった。
「謝罪の意図が不明です。自分自身に謝る必要はありません」
その言葉に、恭介が首を傾げる。
「今のはどういうことなのだ?」
「補助頭脳は守哉の一部です」
「……どういうことなのだ?」
「こいつは、自分と俺が同一の存在だと言っている」
「補助頭脳は冗談を言えるのか?」
「いいえ」
マイクから否定の言葉が響くと、恭介は噴きだした。
「どう考えても別人だ。このセンスは守哉にはない」
「いいえ、補助頭脳は守哉の一部です。なぜなら、自己と他者の境界は、固有の自我の有無で決せられるところ、機械に自我はないからです」
「ならお前はこれからも、自分は俺の一部だと言い続けるつもりなのか?」
「はい」
機械らしい即答。だがその答えは、もはや守哉の感覚とは食い違っている。
「お前は、俺じゃない。お前は俺一人じゃ考えつかなかった道を示してくれた。何度も危機を救ってくれた。俺の足りないところをお前はフォローしてくれる」
「装着者の助けになることが補助頭脳の存在意義です」
「そのために、以前はできなかった判断をしてくれた」
「いいえ。搭載された機能をフル稼働させたにすぎません」
「俺と違う判断ができるんだから、お前は俺とは違う存在だ」
「いいえ。搭載された機能をフル稼働させたにすぎません」
同じ答えが繰り返され、守哉は深くため息をついた。補助頭脳から望む答えを引き出すには、こちらも的確な質問をしなければならない――守哉は質問を組み立て直す。
「どうして俺に伊佐を助けに行かせようとする?」
「補助頭脳の役割を全うするためです。補助頭脳の役割は、装着者の助けになること。それがができなければ、天橋綾の言うように、補助頭脳は存在意義を失うことになります」
「綾が何か言ったのか?」
「はい。天橋綾は『兄貴を助けることができないで何が補助頭脳さ。兄貴を助けたいんなら、兄貴はどうすべきなのか、兄貴のために何ができるのか全力で分析しなよ』と発言しました」
そういえば、綾が何事か怒鳴っていたような気がする。しかし補助頭脳が再生した音声にまるで感情が込められていないせいか、思い出せなかった。
思い出されたのは、綾の別の言葉。確か、補助頭脳の検査をしていた時の言葉。
――『プログラムに名前とか、唯一の個性……自我の萌芽につながる個性を与えるのは禁忌とされてる』。
「守哉、学習機能を持つプログラムに名前をつけるのは禁忌です」
「そう言うと思ったよ」
「なんだ、この補助頭脳には名前がないのか?」
「ああ。機種名はあるんだが……なんだったか」
「Auxiliary Intelligence for Reproduction of Immunity――『免疫再生のための補助知能』が正式名称であり、補助頭脳は俗称です」
「免疫再生……ということは、ライフ・キャンサーに対抗するために作られたのか?」
「はい」
「伊佐も同じことを言っていた。でもこいつがライフ・キャンサーと戦うって、どういうことなのかさっぱりだ」
「確かによくわからないな」
恭介は守哉に同意しつつ、名前の話題を続ける。
「どうするのだ? その子に名前をつけるのか?」
「そのつもりなんだが、良い名前が思いつかない」
「守哉、学習機能を持つプログラムに名前をつけるのは禁忌です。補助頭脳に自我が芽生える可能性があるからです。『
「お前がそうなるとは限らない」
「ですが――」
「いいか、俺とお前は違う存在だ。だから、お前に名前がないと呼びづらい。お前だけの名前がある方が俺は助かるんだ」
「禁忌です」
「そもそも俺は、お前が俺の一部分だとは考えてない。お前は俺じゃない。だから、お前に自我が芽生えても今と何も変わらない」
「しかし、禁忌です」
補助頭脳は禁忌、禁忌と繰り返し、守哉が思考するのを妨害してくる。名前を考える隙を与えないつもりなのかもしれない。守哉が黙っても「禁忌です」と、なお同じ言葉を繰り返す。
「思いついたのだ」
恭介が、閃いた、と言わんばかりに顔を明るくした。
「短絡的かもしれないが、正式名称の頭文字をとって『
「……アイリ、か」
なぜだか、心がすっとした。
「いいな、それ。よし、それで決まりだ」
胸に巣食っていた黒いカビが乾いてポロポロと落ちていくような、そんな感覚だった。
「オーダー、これからはアイリと名乗れ」
「そのオーダーは禁止事項に抵触します。再検討を提案します」
「禁止事項だろうがなんだろうが構わない。オーダーだ。お前はアイリと名乗れ」
一瞬の間を置いて、切れ切れの声がマイクから流れる。
「最終確認――です――本当にそのオーダーを――実行して――よろしいですか」
「ああ、オーダーだ」
声を、張り上げる。
「お前の名前は、アイリだ!」
――右こめかみが、じんわりと暖かい。
「オーダー受理。パーソナルネームとして『アイリ』が登録されました。以後はアイリの呼び名で認識が可能となります」
「頼むよ、アイリ。守哉の助けになってくれ」
「はい。それがアイリの存在意義です」
アイリの返答に満足したらしい恭介は優しく笑うと、再び守哉の目をまっすぐに見た。
「行って来い、守哉。綾さんのことは私たちが守る」
「ああ、任せたからな」
雲を裂く強烈な陽光が、運河ごと二人と――アイリを、眩しく照らした。
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