-06-
暗灰色の雲が空に蓋をしている。吹き付ける風は刺すように冷たく、春の陽気とは程遠い。
うるさい連中から逃れて外へ出てきたはいいものの、どこか行くあてがあるわけでもない。守哉は俯き、足元だけを見ながらフラフラとただ歩く。
古びたアスファルトはひび割れだらけ。歪んで盛り上がっている箇所もある。未那美と歩いた時にはまるで気がつかなかったが、やはりここは打ち捨てられた町。『廃棄街』なのだ。
誰ともすれ違わない。人の影はない。行く先に現れるのは錆びた標識ばかり。喧騒もなく、ささやき声をたてるのは潮風と運河だけ。
視界加速を使ってもいないのに、町は色を失っている。
「守哉、伊佐未那美を救出するには迅速に行動を起こす必要があります」
襟元から、自分のものではない声がする。ひとりになりたくても、守哉は決して結局ひとりにはなれないことを思い知らされた。
「なに言ってるんだ、お前」
「伊佐未那美救出に関して提案をしています」
「伊佐は自分で決めて父親と一緒に行ったんだ。俺が口を出すことじゃない」
「しかし、現在の守哉の思考からは、神威ノ宮から伊佐未那美を救出したいという願望しか読みとることができません」
「……そんなことはない」
「ですが、脳内の信号は――」
「俺の心の中を覗くな!」
「脳内のパルスで構成される感情の発露を、人間は心と呼んでいます。守哉の感情の信号は絶えず送られてくるため、守哉の心を分析しないことは不可能です」
「じゃあ俺の気持ちは、お前には筒抜けなんだな」
「補助頭脳は守哉の一部ですから、その捉え方は不適切です」
「お前は俺じゃない。頭の中にいる別の人格だろ」
「発言の意味が不明です」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
今すぐに右こめかみをかきむしりたい。補助頭脳を思い切り引きちぎり、放り投げてしまえればどんなに――
「守哉!」
誰かが守哉を呼んでいる。補助頭脳とは違う声だ。
気がつくと、ここは運河橋の上。昨日未那美と訪れた小さな市場には、ちらほらと人影がある。この町で人が集まるのは、ここだけなのかもしれない。
「あんた、大丈夫? さっきのは独り言?」
守哉を呼んだのは、中年の女性だった。店番もそこそこに、守哉のところへ駆け寄ってきたらしい。顔に見覚えがある。未那美と共に町へやって来たとき、最初に迎えてくれた人だ。
「昨日の騒ぎもあったし、心配だったんだよ。親方が様子を見に行くって言ってたから任せたんだけど、会えたかい?」
「……はい」
「どうしたんだい、守哉。なにかあったの? 親方には相談したの?」
女性は矢継ぎ早に質問を浴びせてくるが、守哉は応じられなかった。彼女の声は潮風に流されていく。
「守哉、悩みがあるんなら周りに相談しなさい。黙ってちゃ誰にも何も伝わらないよ」
気づくと、守哉の様子をのぞき見る姿が増えていた。誰もが心配そうな視線を投げかけてくれている。
「しんどいことがあるなら、神威ノ宮での仕事なんてやめて、帰ってきなさい。あんたと綾はこの町の子だ。私たち全員の子みたいなもんなんだよ。いつだって、帰りを待ってる」
だが守哉は、目の前の女性の名前すら思い出せない。どんなに彼女の言葉が暖かくやさしいものでも、その慈愛を受け取っていいのかわからない。どう応じればいいのかわからない。
「あれ?」
女性が急に守哉から視線をそらし、肩の向こうを見やった。
「あの子、昨日あんたと決闘してた子じゃないか? ……どこかケガしてるのかい?」
慌てて振り向くと、そこには入院着のようなゆるい服を着た恭介がいた。運河橋の柵を伝ってよろよろと歩いており、危なっかしい。守哉は思わず恭介に駆け寄ると、彼に肩を貸した。
「すまない。髪に触らないよう気をつけてくれ」
「わかってる」
「もう仲直りできたのかい?」
女性も恭介に手を貸そうとしてくれたが、恭介は「大丈夫です」と丁重に断った。
「守哉と和解したくて、追いかけてきたのです」
恭介の柔和な微笑みに毒気を抜かれたのか、
「それなら、二人で話してごらんなさいな」
とだけ言い、女性は市場へと戻っていった。守哉を囲んでいた他の住民たちも、彼女について去っていく。
橋の柵に身体を預け、守哉と恭介は穏やかに向き合う。
「体は……大丈夫なのか?」
守哉は尋ねずにはいられなかた。恭介の顔には青あざ。袖口から覗く腕もいたるところが紫に変色している。守哉との戦いで刃を握りしめた掌にも、痛々しい切り傷の痕がある。
しかし、何より異様なのは手の甲だった。中心が円形にふくれ上がり、その円を中心に三方向、放射状に腫れている。右手の腫れは白く、左手は黒い。これが恭介の
「見た目には大丈夫じゃないように見えるが、まあ、大丈夫なのだ……お前にくらべれば」
恭介は濃緑の柵に肘をつき、流れ行く運河を見つめる。守哉も運河を見やる。曇天の下を流れる運河は、昨日とくらべ輝きを失って見えた。
「目が覚めたので声のする方へ行ってみたのだが、相馬と智長がくだらない言い争いをしていてな。巻き込まれたくなくて、施術室の勝手口から出てきてしまった。まさに、勝手にな」
「そんなことしたら、あいつら、怒るんじゃないのか?」
「ダジャレに無反応だと少し傷つくのだ」
「……お前、余裕あるのな」
「私は隊長なのだから、こういうとき一番落ち着いていなければならない……と言っても、どうしていいかわからなくて、こうして散歩に出てきてしまったよ」
「そうか……」
「守哉こそ、なにをしているのだ? 未那美様が帰られたというのに、こんなところでぼーっとして」
「なんで伊佐が帰ったと知ってる? お前は眠っていたはずじゃあ……」
「相馬と智長の怒鳴り合いがまさにそのことについてだったのだ。長官がやってきただの、未那美様が自分から帰っただの、だいたいのことは把握できた。あれは多分、相馬が私にわざと聞かせたのだろう」
「相馬が?」
「あいつはよく気が回る。きっと私に状況を伝え、お前と話しあうための時間をくれたのだろう。だから多分、私が勝手口から勝手に出ていったのもわかっている。怒るのは一之瀬、御角は心配してくれる……というのが、私の予想なのだ」
静かな物言いからは、親衛隊の仲間たちへの確かな信頼が感じられた。
「……いいところだな」
恭介は運河を見つめながらつぶやく。そよ風が、一本に結い上げられた長い黒髪を揺らした。
「私の故郷も海が見える街だったが、ここまで情緒ある土地ではなかった。人にも、あたたかみなどなかったしな」
まるで自嘲するような言葉。恭介の寂しげな顔に影がかかる。
「お前の本当の居場所はここなのだな……」
「どうしたんだ、急に」
「親衛隊のみんなと過ごす日々は、幸せだった。私の
恭介は守哉の方へ向き直った。だが、守哉の目を見ようとはしない。
「それなのに、私は……お前に裏切られたと思い込み、お前を傷つけ、お前の記憶を奪った。お前のことを友と信じていたはずなのに、お前を信じきることができなかったのだ」
彼の頬を、光る雫が伝う。
「守哉、お前を苦しめたのは私だ。どうお前に詫びたらいいのか、全く考えつかない」
恭介はそのまま地に額を擦り付けるのではないかと思うくらいに深く頭を下げた。その姿に戸惑ってしまう。守哉は何を言うべきかわからない。わからなくて、
「おい、髪が地面についてる。汚れるぞ」
などと言ってしまった。
恭介はなぜか驚いた様子で、勢い良く顔を上げた。
「……俺は、何かおかしいことを言ったか?」
すると今度は、口元をほころばせて笑い出した。
「な、何がおかしいんだ」
「お前は何も変わってないのだな。好きなだけ私を殴るなり蹴るなりすればいいのに、結局出てくるのは私を気遣う言葉なのか。そんな調子では息が詰まるよ」
何がそんなに面白いのか、恭介は肩を震わせてくっくっと笑い続け、ひとしきり笑ったあと、ふうをひとつ息を吐いた。
「なぜ、私はお前を信じられなかったのだろう……」
恭介の瞳が、守哉をまっすぐに見つめた。
「守哉、お前は何も変わっていない。過去の記憶がなくても、お前はお前のままだ。たとえお前自身が忘れていたとしても、過去のお前がどんな人間だったのか――その記憶は、みんなの中にある。町の人達も、未那美様も、みんなお前を信じている。そして今度こそ、私も……だから、守哉。自分を信じるのだ。自分の想いを信じて貫けば、お前はそれでいい」
「自分の、想い……」
脳裏によぎるのは、未那美の姿。
ビルの屋上から飛び降りてきた自分に驚いた未那美。記憶がないと聞き、苦しげに悲しげに息をつまらせた未那美。自分をないがしろにするなと訴える未那美。傷ついた守哉を気遣って泣いた未那美。彼女は青いハンカチで涙を拭う。その青はひどく鮮明だ。
(そうか)
蘇る、未那美の姿。
守哉と共に駆けた空、稲穂の町並み、出迎えてくれた人々。ひとつひとつに感嘆のため息を漏らしている。
綾と楽しげに笑う。慣れない服に着替えて照れている。守哉の作ったオムライスを食べながら頬を紅潮させている。古い建物を見て喜んでいる。
恭介との戦いに自ら割り込んでまで、守哉を守ろうとする。
綿津野との戦いでも、彼女は、彼女だけは、諦めなかった。
(きっと、記憶を失う前にも、同じように感じてたんだ)
今の守哉にとって、未那美と過ごした時は二日間にも満たない。それなのに、彼女の姿は雪崩を打ったようにあふれ出てくる。
『それなら君は……自分がなぜ未那美を逃がそうとしたのか、覚えていないのではないか?』
古い記憶はない。伊佐の問いに返せる答えはない。
だが、それでも、心には確かな想いがあった。
「俺は、伊佐を守りたい」
それは自分自身に対しての、すべてに対しての、確たる決意の表明。
「ならば、思うとおりにするといい」
恭介のいたわるような微笑みに、言葉が自然とこぼれ出る。
「ありがとう、恭介」
目の前の彼が自分の友人であるならば、おそらく過去の自分は恵まれた人間関係の中にあったのだろう。記憶にある限りでも二度、補助頭脳の記録によれば三度、戦った相手であるにも関わらず、そう思えた。
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