-04-
未那美は、神威ノ宮へと去った。
残された面々は、天橋家のリビングに集まっていた――未だ眠る恭介と、玄関から中に入ろうとしない淡路を除いて。相馬と御角は、二人で一之瀬の傷の手当てをしている。
「兄貴の記憶がないっていうのは、本当なんですか?」
綾が神妙な顔で尋ねると、御角が眉をひそめて答えた。
「うん。……聞かされてなかったんだね」
「……兄貴、なんで教えてくれなかったの?」
綾の視線が守哉に注がれる。だが、守哉はその問いに答えることができなかった。椅子に座ってダイニングテーブルに肘をつき、頭を抱えて俯いて――その姿勢からぴくりとも動けず、声も出せなかった。
「兄貴、なんとか言ってよ!」
綾に肩を揺さぶられても、守哉は反応できなかった。
「勘弁してやれよ、妹さん。天橋は未那美様が帰っちまってショックなんだ。落ち着くまでそっと……」
「あたしだってショックだよ!!」
怒鳴り声に驚いたのか、相馬は目を丸くした。
「伊佐ちゃんは兄貴が傷つくの嫌がってた。兄貴と鹿島さんの戦いを止めるのに避雷針がどうしても必要だって言って、あたしに作ってくれって頼んできたんだよ。絶対ケガするからダメだって説得しても、全然聞いてくれないの。どうしても兄貴の助けになりたいって頭下げてさあ……兄貴は怒るだろうと思ったけど、あたし、伊佐ちゃんの言うとおりにしちゃった」
綾の言葉は、涙に震えている。
「伊佐ちゃんが、自分のために兄貴が傷つくのを黙って見てるだけなんて嫌だって、言って、くれたから……あたしと、同じ思いだったから。だから、伊佐ちゃんの言うとおりに、避雷針を作って渡して……」
綾の瞳から大きな涙の粒がひとつ、こぼれた。
「兄貴がネオ・ロボトミーに協力したの、あたしのせいなんでしょ。兄貴は宮に弱味を握られてた……それは、あたし。ナミのコアになり得るあたし。淡路さんが言ってた、神威から逃げ出さなきゃあたしは一年くらいで死ぬって話と、さっきの伊佐ちゃんのお父さんの言葉……ぴったりはまる」
綾は状況を分析し、確信を得たのだろう。彼女の言葉は、守哉が見た夢の内容とも奇妙に一致する。
「兄貴はさ、他の人を助けるためになら、自分がどうなったって構わないと思ってる。あたしを守るためにネオ・ロボトミー受けて、自分の体めちゃくちゃにして、伊佐ちゃんを守るために戦って記憶なくして……でもさ、そうやって助けられた人の気持ち、わかんないかな? 助けたほうはそれで満足かもしれないけど、助けられた方はずっとずっと後悔し続けるんだ。……だからさ、伊佐ちゃんのしたことはおかしいんだよ。矛盾してるんだよ。兄貴が傷ついたら伊佐ちゃんは悲しむ。ならさ、伊佐ちゃんが傷ついたら兄貴が悲しむってこと、なんで気がつかないのかな? ……もちろん、あたしも悲しい」
綾はそこでひとつ深呼吸をすると、顔を上げて拳を作った。
「あたしは後悔したくない。誰も行かないんなら、あたしが出生省に乗り込んで伊佐ちゃんを連れ戻す!」
そう言って、綾はリビングを出て行こうとしたのだが――
「天橋綾が伊佐未那美を救出できる可能性は限りなく0に近いです」
「……は?」
気まずい沈黙など意に介することもなく、守哉の襟元に留められたマイクが勝手に喋り出す。
「リピート受理。天橋綾が伊佐未那美を救出できる可能性は限りなく0に近いです」
「何? 危険だから行くなってこと?」
「はい。天橋綾が死亡した場合、守哉のアイデンティティが崩壊する可能性が高いです」
「……その根拠は?」
「記憶喪失後の守哉は、自らの存在意義と行動の基準を『伊佐未那美の保護』においていました。ですが、伊佐未那美自身に保護を拒絶されたことにより、依存していた基準が崩壊してしまいました。そのため、現在の守哉のアイデンティティを確立するための要素は、妹である天橋綾の存在以外にはありません」
「そうだな。妹さんは行くべきじゃない……ってか、未那美様が自分で決めたことなんだから、言われたとおり忘れちまったほうがいーんじゃねぇの?」
相馬はまるで軽口でも叩くように言い、玄関へ続く扉の前に陣取って綾の進路を塞ぐ。しかし綾は相馬をキッと睨みつけて怒鳴った。
「忘れられるわけないじゃん! 初めて出会った同年代の女の子なのに……どいて!」
相馬を押しのけ、綾はドアノブに手を掛ける。
「守哉、物理力を行使してでも天橋綾を止めることを提案します。天橋綾が単独で出生省本部へ向かった場合――」
「うるさいっ!!」
綾は振り返りもせずに怒鳴った。
「なにが自我の崩壊さ! そうしたのはあんたでしょ!? 補助すべき主人が記憶喪失になったのに何にもケアしなかったからそうなっちゃったんでしょ!? あんたのほうがよっぽど存在意義を失ってるよ! 兄貴を助けることすらできないで何が補助頭脳さ!! 兄貴を助けたいんなら、兄貴はどうすべきなのか、兄貴のために何ができるのか全力で分析しなよッ!!」
綾の剣幕にその場の誰もがたじろいだ。補助頭脳さえも、それきり沈黙してしまった。
「あたし、行くから。一人でも」
バンと大きな音を立てて、玄関へと続く扉が開かれる。綾はそのまま駆け出すと思われたが――
「落ち着け」
扉の向こうにいた淡路が、綾の腕を掴んで止めた。
「離せっ!!」
「補助頭脳は嘘を言えない。わかるだろう? 君は機工士なのだから」
「……っ!」
「君が出て行ったら、天橋はどうなる? それがわからないほど君は愚かじゃあないだろう」
「あ……」
綾は、目に見えて狼狽えた。
「君の行動は合理的じゃあない。戦闘用の融機組織もなしにどう戦うつもりだ」
「……戦うって、誰とですか。親衛隊はここに全員……」
「厄介なのがもうひとりいるんだ。そいつに捕まれば、君は死ぬよりもひどい目に遭うだろう」
「死ぬよりもひどい目って、どんな」
「よくて監禁、悪ければ植物状態で数年保存あたりか」
「……どういうことですか?」
「未那美の次のナミにするために、君を保存するだろうってことさ」
「なっ……」
「そんなこと、未那美が望むだろうか? ……君は、未那美をナミにしたくないと言ってくれた。では、未那美は君をどう思っているか……想像してみてほしい」
淡路はかがみ込み、綾を見上げて言った。綾は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「頭を冷やしたほうがいい。君が死んで喜ぶ者はいるのか?」
「……っ!」
淡路の穏やかな言葉は、だからこそ綾の頭に染み込んだのだろうか。綾は自室へとつながる階段を駆け上がっていってしまった。
淡路はそんな綾の姿を見送ると、リビングへと入ってきた。
「ナミシステムのコアは、『交換』が可能だ。未那美を使い捨てたあとは、次のコアを導入するに決まっている……っ?」
その時、突如淡路の頬から一筋の血が流れた。相馬の打った手裏剣が、淡路の頬をかすめたのだ。
「近付かないでくれませんかね? あんたは銃を持ってる」
切れた頬を撫でながら、淡路はその場に立ち止まり、平然と話し続ける。
「守哉、覚えているか? 未那美と綾さんを救う、もう一つの方法を」
守哉以外の全員が、その言葉に釘付けになった。臨戦態勢をとっていた相馬でさえも。
「……」
だが、守哉は変わらず呆然としたままだ。
「ナミシステムの破壊です」
代わりに答えたのは、補助頭脳だった。
昨日、淡路がこの家に来たとき話していた、もう一つの方法。
――破壊する。ナミシステムを。
「そんなことが可能なの?」
御角の問いに、淡路が静かに頷いた。
「形あるものはいつか壊れる。ナミシステムだって例外ではない。外殻を壊せばもう復旧は不可能だろう。出生省には予算がないし、本庁が新たに計上してくれることもないだろうしな」
「……破壊する」
守哉はようやく、言葉を発した。言葉が、息をするように自然とこぼれ出たのだ。
「新たに生まれてくる子供たちのすべて……神威の将来を葬る覚悟があれば、だが」
淡路が告げる。綿津野も同じことを言っていた。
未那美と綾を救えば、生まれるのを待っている子供たちの未来を奪うことになる。だが、それはまだ起きてもいない仮定の話にすぎない。
だから、守哉には、実感がなかった。
だから、守哉を迷わせるのは、そのことではない――
「……伊佐は……それを望むんだろうか?」
守哉を迷わせるのは、未那美の意志。
彼女が明確な拒絶を示したことこそが、守哉にとって重大なのだ。
「……すまない」
淡路は小声で謝り、それ以上何も言わなかった。
誰も、何も言えなかった。未那美が自ら望んで神威ノ宮へ向かった以上、何をしても、それは未那美の意志に反することになるのだ。
重くのしかかる沈黙の中、淡路がリビングを辞そうとする。
しかし、まさにその時だった。
「おいっ、綾!! いないのか!? 返事をしろ!!」
男の野太い声と、玄関のドアが激しくノックされる音。もちろん守哉には誰だかわからなかったが、どこかで聞いたことのある声のような気もした。
「な、なんだぁ? 天橋、出たほうがいいんじゃないか?」
相馬に促されても、やはり守哉はその場から動くことができなかった。
「おい、じゃあ俺が代わりに応対しちまうぞ。いいのか?」
沈黙を肯定と受け取ったのか、相馬は玄関へ続く廊下を小走りに抜け、急いで扉を開けた。
「えーっと、どちら様で……っ!?」
相馬は、息を飲んだ。
現れたのは、二メートル近くありそうな巨体。広い額には十字傷。特徴的すぎるほどに特徴的な風貌の男だった。
「お主、誰じゃ?」
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