-03-

 気がつくと、見覚えのない廊下に立っていた。

 窓の外は暗く、明かりは壁にかけられた燭台だけ。目の前には、白衣を纏った淡路。その姿に、守哉はこれが白昼夢だと知った。自宅の前で伊佐と言い争っていた淡路は、上下ともに黒い服を着ていたはずだ。

「お前の妹は、ナミシステムのコアとして適合し得る」

 淡路はひどく一本調子な声で告げる。視界が霞がかっていて、表情は窺えない。

「そこでお前に、ネオ・ロボトミーの被験者になってもらいたい。……この意味がわかるか?」

「……綾は、人質」

「そうだ。お前が被験者となってくれるなら、妹に手出しはしないと約束しよう。約束が破られたときは、その手で私をくびり殺してくれて構わない」

 夜の窓に映りこんだ自分の姿。右のこめかみに、見慣れたはずの補助頭脳の姿はない。

「補助頭脳――正式にはAuxiliary Intelligence for Reproduction of Immunityと言うんだが、これを取り付けた上でさらに全身を融機組織で強化すれば、異常能力者と対等に渡り合うことも可能だ。もちろん、私一人を始末するくらいは造作もない」

 身がすくんだ。

 ナミシステムの正体は、生きた女性をコアとした借り腹であること。

 妹がナミシステムのコアの候補であること。

 これから、脳に新型融機組織を取り付けられようとしていること。

 すべてが、恐ろしい。

 だが――

「わかりました」

 妹の命と生活のすべてを神威ノ宮に握られている守哉には、提案を受諾する以外の選択肢はなかった。




「天橋、しっかりしろ!」

 くずおれたはずの守哉の体を支えていたのは、意外にも淡路だった。

「……綾は?」

「兄貴!」

 背後から綾の声が聞こえた。そのまま家の中にいてくれればと思ったが、もはや遅かった。

伊佐が、ゆっくりと綾に近づいていく。

「天橋綾さんだね。私は出生省長官の伊佐修司という。突然ですまないが、君にはナミシステムのコアとして適合し得る素質がある。話がしたい。出生省までご足労願えないだろうか?」

「だめだ!」

 守哉はほとんど無意識に淡路の手を振りほどき、よろめきながら伊佐の前に立ちふさがった。

「伊佐も、綾も、渡せない」

 二人をかばうようにして立つ守哉を見ても、伊佐が動じる様子はない。ただ、ひとつため息をついただけだ。

「天橋、君は丸腰の私に力で訴えるのか?」

「……そうするしかないなら、そうする」

「人類の命運を暴力などという原始的な手段で決するわけにはいかないと思わないのか?」

「暴力を振るおうとしてるのはあんただ! 伊佐を殺す――それが理不尽な暴力以外のなんだっていうんだ!」

「理不尽ではない。ナミシステムの稼働は、コアとなる女性から同意を得てから行うからね……それに、以前よりは、出産のペースを緩やかにする。コアとなってくれた女性が長く生きられるように」

「ふざけるなっ!」

 反射的に手が出た。だが――

「やめてっ!」

 背後から体を羽交い絞めにされ、守哉の拳は空を切った。

「天橋さん、やめてください……お父さんを傷つけないでください」

 守哉を止めたのは、未那美だった。

「お願いします……やめてください」

 未那美の細腕など、振り払おうと思えば容易いだろう。しかし、守哉にはできなかった。


――守るべき対象であるはずの未那美が、自ら、守哉の保護を拒絶した。


「天橋、君には感謝している。君が未那美にくれた思い出は、きっと未那美を支えてくれる」

 守哉の心を支えていた覚悟や決意が、風に晒された砂のように散っていく。

「……」

 何も言い返せない。

 伊佐は、呆然と立ち尽くす守哉の横を通り過ぎ、未那美の肩に優しく触れた。

「帰ろう、未那美。帰って、彼那子との約束を果たそう」

 未那美は父に手を引かれ、守哉から離れていく。道路に停められた蒸気四輪へ向かっていく。

 守哉は動けない。次第に離れていく未那美の背中を見つめることしかできない。

「未那美!!」

 淡路が、未那美の左手を掴んだ。

「本当にそれでいいのか? ナミにならなければ、お前はこれからも生きて、天橋たちと一緒に未来を見られるんだぞ! いろんなところに行って、いろんな人と知り合って……辛いこともあるだろうが、それ以上の喜びがお前を待っているんだぞ!!」

 だが、未那美は淡路の顔を見ようとしない。

「淡路、君はどうして未那美がナミとなるのを阻止しようとする? 娘に未那美という名をつけたのは、他でもない君なのに」

 伊佐のその言葉に、未那美の体が硬直したのがはっきりとわかった。

「君から未那美という名前を聞かされた時、素晴らしい名前だと思ったよ。だからこそ私も妻も賛成したんだ」

「それは――」

「わたしの名付け親、淡路博士だったんですか」

 その声に、守哉はぞくりとした。

「未那美――つまり、未来のナミ」

 落胆、絶望――深い闇を湛えた声。底なしの穴を覗き見たような、そんな心地。

「……この名前が、わたしを規定するんです。名前を呼ばれるたび、わたしの未来はナミのものなんだって、言い聞かされてるような気がするんです」

「それは違う! 私は……」

「淡路博士はなにも教えてくれない!!」

 空気が、震えた。

 未那美が負の感情をむき出しに叫んでいる。あの、未那美が。

「ずっとナミになれと教えられてきた! それなのに今度は逃げろと言って、でも何も説明してくれない! わたしが流されている間に、天橋さんと鹿島さんが望まない戦いをして、親衛隊のみなさんを苦しめて!! こんなに多くの人を傷つけて、淡路博士は何がしたいんですか!?」

 振り返り淡路を睨みつける未那美の目は赤く腫れ、涙に濡れていた。

「わたしには博士の考えがわかりません。気持ちもわかりません」

 そして、彼女は淡路の手を振りほどき――


「わたし、帰ります。神威ノ宮に帰って、ナミになります」


――『未那美ちゃんは自分から神威ノ宮に戻る。そういう運命なのよ』。

 綿津野の言葉がよみがえり、守哉の心に反響する。


「天橋さん、ありがとうございました。とても楽しかった……短かったけど、また一緒に過ごせて、嬉しかった」

 未那美の頬を伝う涙が、儚く光る。

「……伊佐、待ってくれ」

「どうか、どうか……わたしのことは、忘れてください」

「伊佐、行くな!!」

「淡路もよくわからないが、天橋、君もわからないな」

 物憂げな瞳で伊佐が守哉を見つめ、言った。

「君は宮にいた頃の記憶を失っているのだろう? それなら君は……自分がなぜ未那美を逃がそうとしたのか、覚えていないのではないか?」

「……え?」

「自分がどうして未那美を連れ出したのか、覚えているのかい?」

 みぞおちが、締め付けられた。

 淡路から聞かされたナミシステムの話。未那美がいなければ、ナミから新しい子供が生まれることはない。十六年もの間、神威には新しい命が生まれていないのだ。おそらく神威ノ宮の人々は、一年間に生まれる新たな一〇〇人――子を授かりたいと願う夫婦たちの想いを、未那美ひとりとの秤にかけている。そして、優先されるべきは当然前者であると結論づけている。その結論に逆らおうとしたのは、淡路と守哉だけ。

 だが守哉には、過去の自分がその選択をした理由がわからない。

〈動機は憐憫であったと記録されています〉

 はっとした。頭の中に響く、補助頭脳の声。久しぶりに聞いた気がした。

(どうして、俺は伊佐を哀れんだんだ?)

〈憐憫を覚えるまでに至る過程――伊佐未那美と出会った守哉は、はじめ、伊佐未那美を不審がっていました。しかし、何度か顔を合わせ、話をするうちに、親愛の情を抱くようになりました。最終的には、伊佐未那美の境遇に憐憫を覚えました。出生省の外の世界がどうなっているのか知らないまま、出生省本部の地下にあるナミシステムに組み込まれ、自我を失い、やがて衰弱して死に至るという境遇に〉

 補助頭脳が淡々と説明する。しかし、まるで実感がわかない。補助頭脳の説明は、彼女が保存していた『記録』にすぎない。欠落した『記憶』は埋まらない。

「さあ、未那美。乗りなさい」

 伊佐が、助手席の扉を開ける。未那美は振り返り、涙を流しながら微笑んだ。

「さようなら、みなさん。どうかお元気で」

 そう言って深く頭を下げ、車に乗り込んでいく。

「未那美、行くな! 未那美、未那美……っ!」

 淡路の声は、車のドアに遮られた。

 融草機構シルクィーズが吐き出す蒸気の音が曇り空に響き、未那美を乗せた黒い四輪が走り去っていく。

 守哉は、何もできなかった。

 何も、言えなかった。

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