-05-

 誰もが動けずにいる。立ち上がろうとする相馬の口から血が溢れ出る。一之瀬はライフルで綿津野を撃つべく狙いを定めようとしているが、先ほど回避されたことを思ってか撃てずにいる。御角は一之瀬と共に未那美をかばうように立ち、ナイフを構えているが、綿津野の左腕の盾には通じないだろう。足を撃たれた綿津野は未だ地に膝をつき、肩で息をする恭介はその場に立ち尽くす。

 繰り返す波の音があたりに満ちる。静けさが夜の闇を一層濃くしていく。

(どうすれば――)

 綿津野の回復の速さからして、綿津野の融機組織レクシーズには強力な再生能力が備わっていると考えるべきだろう。ならば、綿津野が動けずにいる今が、絶対の好機だ。

 それなのに、守哉の体は動かない。頭の中で喚いていたはずの補助頭脳も、いつの間にか黙ってしまっている。聞こえるのは、寄せる波と夜風の音だけ。

「鹿島さん、御角さん!」

 しかし、突如沈黙を裂く声にハッとした。未那美だった。

「綿津野博士に勝つには博士の動きを止める必要があります。博士は顔を傷付けられることを恐れていますから、顔を狙えば博士は回避行動に集中せざるを得なくなります。ですから、検討すべきは、多方向からの連続攻撃手段の有無です。御角さん、ナイフは何本ありますか?」

「え……えっ?」

「ナイフを何本持っているか教えて下さい!」

「じゅ、十三本です。今手に持っているのも合わせて」

「それだけあれば十分です」

 未那美は御角のそばを離れ、恭介に駆け寄った。

「鹿島さん。もう一度だけ、あなたの力を貸してもらえますか?」

「……勝機があるのですか?」

 未那美は力強く頷く。

「わかりました。それに賭けましょう」

「でも、恭介……」

 止めようとする御角を、恭介が一瞥する。御角は何も言わなかった。恭介の瞳には、有無を言わさぬ強い光が宿っている。

「わたしが神威ノ宮へ帰れば、みなさんは傷つかないですむ……でも、みなさんは、それを許してくれそうにありません。だったら、勝つしかありません」

 誰もが心挫けそうになっている宵闇に、未那美の声が高く響く。しかし、守哉は確かに見た。彼女の小さな手が、震えていたのを。

「伊佐っ!」

 名前を呼べば、未那美は守哉を見て微笑む。

「大丈夫です。みなさんなら、きっと」

「ふう……やっと回復したわぁ」

 綿津野は足についた砂埃を払いながら、ゆるゆると立ち上がる。

「子供のくせにしぶといのねぇ。何事も諦めが肝心よぉ」

 綿津野の言葉にも、未那美は毅然とした態度を崩さない。

「わたしは、理不尽な暴力を許したくないだけです」

「でもあなただって、力でもって力を制しようとしてるじゃなぁい? そういうところが子供なのよぉっ!」

 綿津野が再び走り出す。未那美は自分に向かってくる敵の姿を懸命に睨み、そして叫んだ。

「今です、御角さんっ!」

「はいっ!」

 御角のコートが海風に翻り、裏地に仕込まれた残り十二本のナイフが姿を現した。

「当たれぇっ!」

 御角は次々と綿津野に向かってナイフを投げつける。しかし一本は届かず、一本は叩き落とされ、残りは虚しく空を切る。どれも傷を負わせるには至らない。

「そんな遠くから投げたって当たらないわよぉ!」

「鹿島さん、お願いします!」

 未那美の声に呼応するように、恭介の髪がこれまでにないほど青く輝いた。恭介の体から伸びた細い閃光が空を、地面を走る。狙いは綿津野自身ではない――御角が放ったナイフだ。十三本の雷光がナイフに絡みつき、その進路を強引に変える。

「捕らえた」

 恭介の瞳がネオンブルーに染まり、体から放たれる光がいっそう強くなった。ナイフは磁力をまとった光の糸に操られ、それぞれが意志を持つかのように宙を縦横無尽に駆け巡る。

「なっ……!」

 綿津野は怯んだ。無数のナイフが正面から、頭上から、背後から、側方から、綿津野に迫る。叩き落としても浮かび上がり、無限に攻撃を繰り返す。

「完璧です、鹿島さん!」

 綿津野が回避する。しかしナイフは進路を変え風を切る。狙いは、綿津野が固執する、彼の顔だ。綿津野は壊れかけの脚でひたすらに避け続けるが、白衣は裂かれ、四肢にも血が滲み始める。

 未那美の策が功を奏した。勝利の好機が再び訪れたのだ。しかし――補助頭脳は、何も言わない。

「くそっ、壊れたのか!? なんとか言えっ!」

「……違うわよぉ」

 ナイフを避けている最中だというのに、綿津野は流暢に答えた。

「その子は質問されたことに答えようとしただけ。私の下したオーダーにねぇ」

「お前のオーダーだと……?」

「そう。『補助頭脳が壊れたら、守哉くんはどうなるのか教えて?』っていうオーダー」

 綿津野は、口の端に歪んだ笑みを浮かべる。

「最新鋭の融機組織レクシーズとはいっても、しょせんは機械。意志も自我もない、命令に従うだけの木偶。根本的なところは旧時代からまったく進化してないのねぇ……愚かだわぁ」

 綿津野の口ぶりにも表情にも、明らかに余裕が出てきていた。一方、飛び交うナイフと恭介をつなぐ光は明滅し始めている。ナイフはどれもぶるぶると震え、動きも正確さを失いつつある。恭介はぜえぜえとひどく息を切らしており、未那美と御角が体を支えることでぎりぎり立っていられるといった様子だ。

「たかが異常能力者ギフテッド風情が、小賢しいのよっ!」

 飛び交うナイフが作り出す檻の中から、綿津野が強引に銃を乱射した。弾は見当違いの方向へ飛んでいく。だが、

「流れ弾にだけは気をつけろ」

 不意に一之瀬の言葉が蘇り、守哉は言い知れぬ寒気を覚えた。

 そしてその悪寒は、具体的な形を伴った。


「ああああぁぁっ!!」


 悲鳴――女性の。

 流れ弾の一つが、未那美の腕をかすめ――誰もが、目を見開いて彼女を見つめた。撃った当人の綿津野さえも。

「あ、あらぁ……未那美ちゃんに当てるつもりはなかったんだけどぉ……」

 未那美は撃たれた腕をおさえた。指の間から血が漏れ、額には痛みゆえの汗が浮かぶ。

「貴様ぁっ!!」

 激昂した一之瀬が綿津野を撃った。しかし、やはり盾に防がれてしまう。

「くそっ!」

 攻撃に参加できずにいる一之瀬の顔には、これまでとは違う焦りが浮かんでいた。御角は青ざめた顔で未那美を見つめ、這いつくばったままの相馬も、激しい怒りの視線を綿津野に向けている。

 だが守哉は、ただ、呆然としていた。

(伊佐が、撃たれた)

 たとえ事故であったとしても、未那美自身が撃たれたという事実。それは――彼女がナミにならずとも、この場で死んでしまう可能性があるということ。

(どうしてこんなときに、俺は動けないんだっ……)

 理屈はわかる。補助頭脳がおかしくなったせいで、守哉の脳は体に命令を下すことができなくなり、一時的に全身不随のような状態になっているのだ。言うことを聞くのは、補助頭脳の影響が及ばない器官――舌と呼吸器だけらしい。

「守哉……っ!」

 恭介の青い瞳が、まっすぐに守哉を見ている――真っ赤な血の涙を流しながら。

「お前の覚悟はそんなものなのか? 補助頭脳の挙動に左右されてしまう程度のものなのか!?」

 体が、カッと熱くなる。

(……そうだ。俺は、伊佐を守りたい。そのために戦ってるんだ)

 拳を握りしめようとする。だが、力が入らない。

(この場にいる全員が伊佐を守ろうとしているのに、俺は何をしてるんだ)

 まだ戦える、まだ動ける。そのはずなのに――

「補助頭脳さん!!」

 痛みをこらえ、目尻に涙をためながら、他でもない未那美自身が大声を張り上げた。

「綿津野博士の質問は無意味です! あなたが損傷する前に天橋さんは必ず勝ちます! だから考慮する必要はありませんっ!」

 未那美の声が凛と響き、夜の波止場を震わせた。

「天橋さんを信じて!!」


 機械に、『信じて』。

「なんて滑稽なの」

 綿津野は嘲笑わらう。

 だが、その言葉は――守哉にとっては、闇の中で眩しく輝く光だった。


「……補助頭脳。俺のことはいい。今は伊佐を守らなくちゃいけない」

 今の守哉が唯一発することができる『声』で、補助頭脳に訴える。

「いいか、

 すぅっと息を吸い、大声で叫ぶ――!


「オーダー、俺を勝たせろッ!!」


 こめかみが熱い。体が震える。敵をまっすぐに見据え、反応を待つ。

 それは、一瞬のできごと。

 それは、ひどく長い時間。


〈計算――中断〉


 頭の中で、思考が光った。

 言葉ではない。それは、光り輝く決意。


〈オーダー受理。完全自動回避フルオート・ドッジ再起動。視界加速ヴィジョン・アクセル一.〇三秒〉

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