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 なだらかな長い坂をゆるゆると下り、運河橋を目指す。その間も未那美は、道に沿って立つ家々を見てはきょろきょろと落ち着かない。小洒落た街灯を見つけては足を止め、旧時代から残る石造りの建築物の前で立ち止まる。

「このお屋敷、入り口に案内板がありますよ」

 木造のあばら屋が立ち並ぶ中で、一際目立つ石造りの屋敷。どうやらここは史跡として残されているようだ。未那美が指した案内板には、『神威銀行本店跡地』と書かれている。

「さっき補助頭脳が言ってたのはこれか。こんなものを残してどうするんだ」

「わたしは、この建物を見ているとわくわくしてきます」

 弾んだ声音。城のように鎮座する銀行跡を見上げる未那美の目は、輝いていた。

「これが、観光なんですね。とっても楽しいです。こんな楽しいことをみんながしなくなってしまったなんて、信じられません。せっかくこの街はこんなにきれいなのに。『廃棄街』なんて、ひどい呼び方です」

「でも、それがこの街の名前だろう?」

「いえ、第六廃棄街という名前は、落日で被害を受けた街、という画一的な基準で付けられたあだ名です。この街の本当の名前じゃありません」

 未那美の発言に合わせ、補助頭脳から情報が提供される。生き残った神威の人々は、ほとんどが神威一の都市である『創清』に寄り集まって暮らしており、それ以外の集落は過疎化が進んでいる。ここ第六廃棄街に人が住んでいるのは、数少ない例外らしい。

「名前には言霊が宿ります。この街やこの街の人たちが暖かくてやさしいのは、『稲穂』という本当の名前――そこに住む人々を育む食物、秋には金色に輝き風に揺れる豊穣、豊かさから導かれる心の余裕……そういう言霊をはらんでいるからで……」

「言霊?」

「はい。名前はとても大切なものです。どんなに姿が変わっても、どんなに自分を偽っても、名前は存在を規定する唯一無二のものです。『自分』が『自分』であり続けるための鍵みたいなものだと、本で読みました。でも、わたしの、この名前は――……」

 流暢に話していた未那美だったが、急にはっとして俯いた。

「す、すみません……わ、わたし、その、たまに自分の世界に入っていると言われて……」

「構わない」

 急に饒舌になった未那美に驚かないでもなかったが、気にしないふうを装う。

 それよりも、未那美が『言霊』――『名前』に妙なこだわりを見せたことのほうが、気にかかった。


 二人はそれからもゆっくりと歩き、やがて大きな通りがぶつかった交差点に着いた。ひらけた場所にはテントが建ち並び、確かに小さな市場をなしている。しかし、どの店も無人だ。

「お店は出てるのに、誰もいませんね」

「あそこじゃないか?」

 運河にかかる大きな橋――その上に人だかりができている。未那美はそれをじっと見つめた。

「行ってみるか?」

「はいっ」

 考えを汲んで先に提案しただけなのに、それだけで彼女は頬を緩めて笑った。


 港運のために作られた、稲穂の運河。流れているのは海水だ。頬を撫でるそよ風にはほのかな塩の匂いが混じっている。運河に沿って立ち並ぶ街灯と、地面と水路とを隔てる柵は同じ深緑色で統一感されており、町並みを美しく演出している。

 この運河が港運のために使われなくなったのは、落日よりも前だという。それでも運河は観光地として整備され、生まれ変わったらしい。それゆえに、運河にも街にも、人類に観光をするだけの余裕があった旧時代の面影が色濃く残っていた。

 運河には、街から港へ繋がる橋がいくつもかけられている。人だかりができている橋は、その中でも一際大きかった。

「第六廃棄街の住民たちが運河橋と呼称しているのは、この橋です」

 大きな橋を見つめた守哉の視線を受けてか、補助頭脳が補足する。

 橋の上では、皆が輪をなして誰かを囲んでいるようだ。濡れた長靴を履き前掛けをしている者、野菜を抱えたままの者もおり、市場の店番を放り出している。

「こんなにたくさん人がいるの、初めて見ました」

 人混みに混じるだけで彼女の声は弾む。守哉は、怪しまれないよう襟元のマイクのスイッチを切った。これで補助頭脳が喋りだすことはない。皆は一体何を見ているのだろうと背伸びして中を覗くと、思いがけないものが目に入った。

――純白のコートを着た、少年たち。

「伊佐、ここを離れて家に戻るぞ」

「えっ?」

 守哉は、未那美の腕を掴んでその場から逃げ出そうとしたが、

「あ、守哉。あの子たちが探してるのって、そのお嬢さんじゃねえか? 家出したお嬢さんを連れ戻しに来たらしいけど、お前わかってるのか?」

 もう遅かった。野次馬の一人が守哉を呼び止めた。善意でしかないことはわかっている。だが今の状況では、まさに小さな親切が大きなお世話となった。

「……守哉?」

 人だかりの中から、守哉を呼ぶ声が聞こえた。

「すみません、道を開けてください」

 人垣が二つに割れ、白コートの少年たちの視線を避けることはかなわなくなった。そこにいたのは、昨日の三人――一之瀬、相馬、御角、そしてもう一人、長い黒髪を頭の高い位置で結った少年だった。

「守哉、なのか?」

 黒髪の少年が近づいてくる。潮風が髪を揺らし、コートは陽光を纏って輝く。

 当然ながら、少年の顔に見覚えはない。だが、どうやら守哉とは知り合いらしい。少年は悲しみと怒りがない混ぜになったような、複雑な表情を浮かべている。

「おそらく天橋は未那美様を……」

 少年に駆け寄った一之瀬が何事か言おうとした。しかし少年は一之瀬を手で制し、守哉の前に進み出た。

「守哉、よくやった。連れ去られた未那美様をよく保護してくれた。もう逃げまわる必要はない。一緒に神威ノ宮へ戻ろう」

 少年はひどく真面目な顔で守哉を見ている。

(どういうことだ? こいつは誰だ)

〈鹿島恭介、ナミ親衛隊の隊長です。鹿島恭介との戦いで守哉は記憶に障害を負う結果となりました。先ほどの発言は、守哉を混乱させる方便である可能性が高いです〉

(それなら、こいつの言葉は、嘘か)

 守哉は恭介の目を見た。そして、はっきりと告げる。

「伊佐は渡せない。帰ってくれ」

 おお、と周囲がどよめいた。未那美をめぐって守哉と恭介が争っているといった様子に見えるのだろう。恭介は、観衆の様子にも守哉の言葉にも動じない。

「もう任務は終わりなのだ。未那美様も満足なさったことだろう。さあ、帰るぞ守哉」

 有無を言わせぬ語調。恭介が喋る度に、空気がピリピリと張り詰めて震える。未那美が、守哉の上着の裾をぎゅっと握った。

「帰るつもりはない。帰すつもりもない」

 恭介の端正な顔が怒りに歪む。

「頑固なところは変わっていないのだな!」

 恭介のコートの裾がふわりと浮き上がった。彼の周囲でバチバチと青白い火花が爆ぜ始め、長い髪が火花と同じ色に輝きはじめる。

 青く輝く指先が守哉を指した瞬間、左頬の上を何か熱いものが走った。

「天橋さん!」

 未那美が悲痛な声をあげた。彼女は恐怖に目を見開き、守哉の顔を凝視している。

――左頬が焼けている。

「守哉、たとえお前でも私の攻撃は視えない」

〈鹿島恭介は『陽電精製プラズマ・プラント』という能力を有する特異能力者ギフテッドです。体内で生産した電気を利用して自己を電極とし、放電現象を起こすことができます。そのため攻撃は超高速であり――〉

 補助頭脳の説明が終わる前に、左上腕部にも雷の矢が突き刺さった。

 脅しではない。守哉は身構えた。

 しかし、

「守哉に何するんだ!」

「喧嘩なら拳でやれ!」

「そうだそうだ!」

 無鉄砲にも、町の人々が守哉の前に壁となって立ちはだかった。この状況でもし恭介が、町の人たちに向かって力を使ったりしたら――だが、その心配は杞憂だった。

「拳ならいいのですか」

 恭介の周りで弾けていた青い光がすうっと消え、髪も元の黒色に戻った。

「無関係の方々に危害は加えたくありません。どうかそこを退いていただけませんか」

 恭介は、深く頭を下げた。その異様な態度に、人々はざわつき、守哉も戸惑いを覚えた。

(なんだ、こいつは)

 結局、守哉をかばったはずの住民たちは、守哉と恭介を中心に大きな輪を作り、観戦の姿勢に入ってしまった。

「これじゃあまるで決闘じゃないか」

 呆れた声でそう言ったのは御角だ。相馬は住民たちの輪に混ざり、楽しそうに話をしている。一之瀬は険しい顔で守哉と恭介を見つめていた。

「お前が誰だか知らないが、伊佐を連れ去りにきたのなら、全員でかかって来るべきだろ」

「明日の朝までに未那美様を連れ戻せと言われている。その前に、まずはお前を説得したかったのだ。だが、お前は聞く耳を持たないのだろう?」

「お前たちはなんなんだ。どうして伊佐を狙う?」

「どうして――それは私のほうが聞きたい。お前はなぜ、未那美様を宮へ帰そうとしないのだ」

「……わからない」

 わからない――目の前にいる恭介との戦いで記憶を失ったらしいので、わからない。

 だが、記憶がない、という言葉は飲み込んだ。住民たちに記憶喪失のことを知られれば、芋づる式に綾にも知られてしまうだろう。

「……そう、だったな」

 恭介は一瞬、ひどく悲しげに表情を歪めた。だが、すぐに顔をあげ、キッと守哉を見据えた。

「ならば、私がお前を正気に戻してやる」

 顔を狙って伸びてきた恭介の拳をかわし、空振りしたその腕を勢いよく払う。恭介は意外にも簡単によろけた。すかさず繰り出した反撃の拳がみぞおちにめり込み、恭介はうずくまってうめき声を上げた。

「あーあ。能力使ってない鹿島に手加減抜きなんて、お前本当に忘れちまってんだな」

「相馬、余計なことを言うな」

 よろめきながらも、恭介は立ち上がった。

 射抜くような視線が守哉に向けられる。無様に腹をおさえながらも、瞳に宿る強い光は消えない。

「守哉。お前を、神威ノ宮に連れ帰る」

 恭介が右足で一度地面を踏み鳴らすと、彼の髪がぞわっと浮き上がる。

「たとえ、お前を傷つけてでも!」

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