-02-
〈ここが守哉の自宅です〉
道を挟んで、運河の向かい。色褪せたレンガ造りの家がそれだった。
玄関に鍵はかかっていなかった。おそるおそるドアノブに手をかけ、扉を開き、大きく息を吸って、
「ただいま」
と、一言。
すると家の奥から、ガタン、ゴトンと何かが倒れるような音が聞こえ、
「な、なんだ?」
廊下の先にある木製の扉が勢いよく開かれ、部屋から誰かが飛び出してきた。
顎の辺りでざっくりと切られた茶髪。顔の下半分は無骨なマスクで覆われており、視線は奇妙なゴーグルに隠されている。油で汚れたサロペット、手に握られた大きなプラスドライバーは、どう見ても何かの職人か技術者という風体。その見た目からは、性別を判断できない。
「……兄貴?」
しかし、マスクごしのくぐもった声は明らかに少女のものだった。乱暴に押し上げられたゴーグルの下から現れた大きな瞳も、少女のものだった。
「え、ホントに兄貴なの?」
(この子が、俺の妹?)
〈はい。天橋綾、守哉の妹です〉
補助頭脳の返答が終わるか終わらないかのうちに、妹――天橋綾は、思い切り駆け足で守哉に走り寄る。
「その、肩の傷! なんなの!? 大丈夫なの!?」
怒っているのか心配しているのか判断しかねる剣幕で、綾は守哉に迫った。
「も、もう完治している」
「あ、そうなの。じゃあよかった」
しかし返ってきたのは、意外にもそっけない反応。
「制服、洗濯するから着替えてきて。えっと……お客さんも、服汚れてるから、そっちも」
「えっ、あ、あの、わたしのことは、お構いなく」
緊張しているのか、未那美は守哉の影に隠れている。一方で綾は、未那美を値踏みするのかと思いきや――
「……かわいい」
「えっ?」
綾は未那美の手をぐいと引っ張って自分の前に立たせると、目を輝かせた。
「あたし天橋綾、十五歳! 誕生日は二〇四〇年十二月二十四日、やぎ座のAB型だよ! あなたは?」
「え、えっと、伊佐未那美、十六歳、二〇四〇年一月三日生まれ、やぎ座のO型……」
「いえーい! やぎ座ー!」
「い、いえーい……?」
二人は何故かハイタッチしたが、未那美の顔からはありありと困惑が見て取れた。
「おい、あまり伊佐を困らせるな」
「お、兄貴は苗字呼びですか~。なら私は伊佐ちゃんって呼ぶね。先越したら悪そうだし」
「あ、あの、どうぞ、好きなように呼んでください。わ、わたしの、ほうは……」
「綾でいいよ~」
「じゃあ、綾さん」
「さんは別にいらないけど、まぁいっか。ささ、着替え貸したげるからあたしの部屋に来て! 兄貴も着替えたら洗濯物出しといて」
「おじゃまします」
未那美は靴を丁寧に一足ずつ脱いで揃えようとしていたが、脱ぎ終わった瞬間に綾に手を引かれ、二階へと連れ去られてしまった。綾の態度に呆れつつ、守哉は未那美の靴を揃えた。茶色いショートブーツは、油と砂と泥でひどく汚れている。
(……そういえば、俺の部屋はどこだ)
〈階段を上がった先です〉
補助頭脳の言うとおり、リビングへ続く廊下の途中に階段があり、登って行くと二つの扉があった。一つには『AYA』とかわいらしくデコレーションされた札が下がっており、もう一つには『もりや』と子供の字で書かれた札が貼り付けてあった。
(俺の部屋……なのか)
そこが自分の部屋だという実感はなかったが、ドアに貼り付けられた幼い札には見覚えがあるような気がした。
ドアを開けると、そこは殺風景な部屋だった。机、ランプ、ベッド、クローゼットの他には何もない。クローゼットを開け、長袖の黒いTシャツとデニム、それに下着を取り出し、汗まみれの服をすっかり取り替える。
撃たれた傷は、触るとはっきり分かる程度の痕にはなっていた。しかし、もう痛むことはない。
『言っただろう。未那美様を狙ったところで当たらぬと』
トリガーを引いた一之瀬の言葉。彼は、守哉の能力や性格を知っていると考えたほうがいい。そして、守哉が今しがた脱いだ純白のコート。
「……俺は、あいつらの仲間なのか?」
〈はい。守哉は、ナミ親衛隊の一員です。一之瀬銀次、相馬仁、御角智長もナミ親衛隊に所属しています〉
質問したつもりではないのに、補助頭脳が反応した。疑問形で発言したり考えたりすると、自動的に返答を行うようになっているのだろうか。
(そういうことは先に教えてくれ)
〈では、五月十七日午前一時二十四分のオーダーを実行してもよろしいですか〉
そう言われ、最初に目覚めたときに補助頭脳が同じことを言っていたのを思い出した。オーダーの中には守哉の疑問に対する答えがあるとも言っていたはずだ。
(頼む)
〈はい。天橋守哉、十六歳。
「……それだけなのか?」
思わず声が出た。
〈はい〉
感情のない声が頭の奥に響く。思わず、自分は馬鹿なのではないかとため息が出た。これでは、どう行動する予定だったのかがわかっただけで、肝心の自分の記憶に関しては何一つわからないままだ。
しかし、気になるところはあった。
(伊佐だけじゃなく、綾も神威から逃がすのか?)
〈はい〉
(どうして――)
「兄貴ー! 何やってんの!」
問題の人物が、激しくドアをノックしながら叫んでいる。
「女子より着替えに時間がかかる男子とは一体何なのか!? 早くリビングに来て!」
「わ、わかった」
慌てて部屋を出るも、気にかかった部分については忘れなかった。
補助頭脳が『綾も逃がす』と言ったこと。
そして――『ナミ』という言葉。全く意味がわからない。
ただ、『ナミ』と聞く度に、自分の体に黒い無数の虫がわくような心地がする。それだけは確かだった。
リビングの扉を開けると、そこには想像だにしなかった光景が広がっていた。
「なっ……なんだこれ」
フローリングの床には工具やネジ、作りかけの義手、義足、果ては人体模型や骨格標本までが散乱していて、ソファの上まで侵略している。部屋の隅には空になったカップラーメンの容器が山と積まれ、今にも崩れそうだ。飲み終わったあとのジュースの瓶も無数に転がっている。
「兄貴が帰ってくるとは思わなかったから、リビング借りて作業してたんだよね。うぇへへ」
「うぇへへ、で済むか! こんなところに人を招き入れられると思ってるのか!?」
「天橋さん、あの」
散らかった部屋の奥でオロオロしていた未那美は、淡いピンクのオフショルダーニットに、ベージュのショートパンツという出で立ちになっていた。先ほどまでの巫女装束のような服とは、まるで印象が違う。
「綾さんの服、お借りしました。か、肩が出てたりして、なんだか不思議です」
しかし、守哉は肩よりも先にひざを見た。血が出ていた箇所は、きちんと手当てされていた。
「やだ、兄貴って脚フェチなの? やらしーなー」
その言葉に、未那美の顔が真っ赤になった。全くもってそんな意図はない。見当違いの発言をした綾を睨みつけると、
「い、今から部屋の片付けしま~す!」
と、逃げられた。
それから、一時間ほど。
必死に片付けても、三分の一も終わらなかった。機工士とやらが扱う道具のことなど守哉にはさっぱりわからないのに、綾はまるで戦力にならず、ほぼ守哉が一人でやる羽目になったからだ。
「あの……わたしも、手伝います」
「いーっていーって! お客さんにそんなことさせられないよ」
未那美のありがたい申し出をあっさりと蹴りつつ、守哉には、
「あ、兄貴、ハンドドリルはそっちの箱」
という綾。守哉の口から漏れるため息が徐々に深くなる。
(どうしてこんなに汚くなるんだ。それに、なんで義手や義足が?)
〈天橋綾は機工士です。この部屋に散らばっているのはどれも制作途中の
頭の中でひとりごちると、補助頭脳が言葉足らずな横槍を入れてくる。無視するよりはましかと、守哉は苛立ちをおさえて尋ねた。
(
〈人造の体組織のことです。機械的な構造を持ち、脳からの信号を動力にして動く、『人体と機械の完全な融合を実現した組織』です〉
(それがこんなに転がっているということは、綾は
〈はい。機工士と呼ばれる職業です――守哉、後ほど天橋綾によるメンテナンスを受けてください。守哉の
(俺の体にも
〈はい。全身の筋肉と神経、右の腎臓、補助頭脳が
ようやく、昨日の補助頭脳の説明に合点がいった。守哉が人間離れした力を発揮できるのは、補助頭脳による脳の強化に合わせ、体のほうも部分的に
だが、彼女に聞こうとは思えなかった。聞けば、守哉が記憶喪失であることがばれてしまう。心配させたくない――彼女の顔に見覚えなどないのに。
「兄貴ぃ、手が止まってるよ~」
しかし当の本人は、守哉の心に気づく様子もない。
「お前が文句を言える立場か?」
「うっ……はーい、やりますやります! 掃除がんばります!」
「あの、やっぱりわたしも……」
「いーっていーって!」
結局その三十分後、未那美は自主的に掃除に参加した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます