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01-

 目を覚ますと、正午を過ぎていた。

「寝すぎたな……」

 体を起こすと、何かが滑り落ちた。毛布だった。未那美がかけてくれたのだろうか。

「天橋さん、まだ起きちゃダメです。まだ四時間経ってません」

「八割方回復した。もう十分だ」

 まだ守哉を寝かせようとする未那美の手を払って目を閉じ、

「オーダー、索敵」

 と呟く。

〈オーダー受理〉

 わずかだが、補助頭脳の扱い方を思い出した。この補助頭脳は、守哉の脳が生まれながらに持つポテンシャルを解放する機能を有している。守哉がひとたび命令を下せば、彼女は動き出す。未だ人間が自身では扱いきれない脳――その全力を引き出すべく。

〈索敵を開始します〉

 一瞬の耳鳴りの後、可聴領域が半径百メートルまで広がる。あらゆる音を拾い集めれば、付近の様子を聴覚で探ることが可能になる。

 自分たちの他に生物の気配はなかった。聞こえてくるのは、風の音。それと、自分と未那美の心臓の音だけだった。

「この付近に追手はいない。人のいるところまで一気に駆け抜けるぞ」

 守哉は未那美の返事を待たず、彼女の体を抱き上げた。

「きゃ、きゃあ~~~~!! 何するんですかっ!」

「伊佐の足では俺について来られない。こうするのが最善だ」

「で、でもっ……ナミとなる者は純潔を……」

「じゅ、純潔って、そんなことはしない!」

「でも今、胸に触りそうでした!!」

 そう言われてしまうと、逆に意識がそちらに向いてしまう。抱きかかえた華奢な少女の体。間近で見るとよりいっそう際立って見える可憐さ――心臓が一度大きく跳ねた、気がした。

「わかった、わかった! 肩と脚を抱えていく。それでいいだろ?」

 ごまかすようにそう言うと、未那美は目を逸らしながら、

「……はい」

 と、小声で答えた。


〈両足筋組織制限解除リミッターカット――効果持続は十分間に設定〉

 玄関を飛び出し、近くの建物の壁を駆け上がり、屋根から屋根へ飛び移って先を急ぐ。狭い路地を縫って行くよりも、見晴らしのいい屋根の上を飛びながら移動したほうが安全だ。障害物はないし、万が一追手がいても、不意打ちを受けずに済む。

 まだ少し冷たい春の風を切って、空中を駆け抜けていく。日は高く昇り、緑の山々の稜線を輝かせていた。灰色の雲の波間からも、すがすがしい青が覗き始めている。遠くに見える街の跡は、手のひらですくい取れそうなくらい小さい。先ほど、ただ逃げるためだけに走ったときとは、何もかもが違って見えた。

 未那美は、ここから見える風景に感激しているのか、ひっきりなしに何事かつぶやいていたが、風の音に紛れてあまり聞こえなかった。しかし、

「外の世界は、こんなにきれいだったんですね」

 という感慨深げな声だけは、はっきりと聞こえた。


 七分ほど走った頃、廃墟ではない町並みが見えてきた。

――第六廃棄街『稲穂いなほ』。

 補助頭脳からもたらされた情報によれば、落日ザ・フォールで隕石が降り注いだ地域は『廃棄街』とされ、行政から見捨てられるのだという。その一つがここ、第六廃棄街というわけだ。

 守哉は未那美を降ろし、並んで歩いていた。歩きながらも、一般常識を取り戻そうと努める。

「旧時代――落日ザ・フォール以前は、漁業のさかんな町だったそうです。でも、海の生き物がライフ・キャンサーに汚染されて、漁業の中心が養殖とクローン生産に頼るようになると、港は不要になってしまいました」

 未那美は、地理の教科書をそらんじるかのように、すらすらと説明してくれた。

 かつての稲穂の主要産業は二つで、一つは漁業、もうひとつは観光。前者は見る影もないが、後者の痕跡は残っている。坂だらけの道、高台から見える水平線。観光客を迎えるべく整備された町並みと洒落た街灯。海運を助けるために作られた運河。道を覆う石畳はところどころがくぼんだり欠けたりしていて、落日ザ・フォールの傷痕が残っているものの、その美しさは今も健在だ。そのせいか、おかげというべきか、町並みから『廃棄』された街という印象は受けない。

〈ですが、現在、観光という活動は人類の文化から失われています。ライフ・キャンサーによって人類の五〇%が死亡、四九%以上に悪影響があったため、人類は種と文明の再構築に追われており、観光などの娯楽的活動に割く時間がありません〉

 未那美の言葉も、補助頭脳の言葉も、どれも腑に落ちた。

 この街の景色を、おそらく知っている――ふいに、胸の奥から懐かしさがこみ上げた。

「きれいなところですね。本で見るのと、実際に見るのとでは、雰囲気が全然違います」

 未那美はせわしなくあちらこちらを見ては、感嘆の声をあげている。彼女のほうは、この町に来たことがないらしい。

「あれぇ、守哉?」

 考え事をしていたせいか、正面から歩いてきた中年の女性に気がつくのが遅れた。女性はまっすぐに、守哉のもとへ駆け寄ってくる。

「なんだいその子! 彼女かい? 白昼堂々連れ歩くなんて、あんたそんな大胆な性格だったっけ? ってか、なんだいその血は!? 大丈夫なのかい!?」

 早口でまくし立てられ面食らう。この女性も知り合いなのだろうが、やはり記憶にはない。

「この傷はもう治りかけなので、心配いりません」

「ああ、そうなのかい。よかった。さすがは宮製の融機組織レクシーズだね」

 女性は安堵のため息を漏らすと、振り返って叫んだ。

「おーい、守哉が帰ってきたよー!」

「なんだなんだ?」

「守哉?」

「ずいぶん早い帰りだな」

 通りの向こうから続々と人が現れては守哉たちに近づいてくる。全員が中年か老年で、若者はひとりもいない。誰もがまず守哉の傷ついた肩を心配し、問題ないとわかれば、未那美について根掘り葉掘り尋ねようとする。

「しかし、守哉が女連れか。お前のよさをわかってくれるなんて……大事にしろよお」

 ううっと声を殺しながら涙を拭うオーバーな仕草。守哉を気遣う近所のおじさん、といったところだろうか。

「そ、そんなんじゃありません」

 声に焦りを滲ませて言ったのは未那美だったが、大人たちは笑うばかりだ。

「妬けるねえ。俺も若いうちにかわいい子と出会って青春しておきたかったぜ」

「お前じゃ無理無理。守哉とはツラが違う」

 そこに、少し焼けた低い声が割り込んできた。

「顔はいくらでも変えられる。だけど心は変えられない」

 そう言った男の姿を見て、守哉も未那美もぎょっとした。

 二メートル近くありそうな上背に、筋肉で厚みのある巨体。短く刈った髪は白い。何より目立つのが、広い額に刻まれた十字傷だ。この傷のせいで、いかめしい顔つきがさらにいかめしく見える。

「親方じゃないですか。こんな時間に珍しい」

「休憩時間に散歩しとったら、珍しい顔が見えたもんでな!」

 親方と呼ばれた巨躯の男は、豪快な声でガハハと笑い、守哉の頭をポンポンとやさしく叩いた。

「久しぶりじゃな、守哉。女連れとはようやるわ。これから綾に会ってもらうのか?」

「あら、綾ちゃんにに紹介するの!? それはえらいことだねえ!」

 あははは、と大人たちは楽しげに笑う。

「あの、伊佐と俺はそんなんじゃありません」

 控えめにそう言うと、何故か周りから寂しげな視線が投げかけられた。

「守哉、お主なあ。行動しないと後悔するぞ。お主にもそこのお嬢さんにも、青春は今しかないんじゃぞ」

 親方の声からは、揶揄が全く感じられなかった。正真正銘の憐憫が詰まったその声は、ただの気遣いというだけではなさそうだった。

「親方、今しかないというなら早く行かせてやろうじゃないか。綾ちゃんが待ってる」

「おう、そうじゃな。ほら行け、色男!」

 親方の巨大な手に思いっきり背を叩かれてよろめいたが、肩の傷はもうほとんど痛まなかった。


 自宅へ向かう途中、多くの人に声をかけられた。

「守哉、おかえり」

「守哉、今回は早かったな」

「あんまり綾ちゃんに心配かけたらいけねえぞ」

 誰もが守哉に好意的だった。この街で、自分が歓迎されていることはわかる。

(でも、誰の名前もわからない。顔も知らない)

 街は思い出せても、人は思い出せない――『妹』に会うのが、たまらなく不安だ。

 しかし、未那美は期待だけを滲ませて言った。

「妹さん、どんな方なのか楽しみです。天橋さんの妹さんなら、きっといい人に決まってますから」

 未那美からの、無償の信頼。

 それは、過去の守哉が獲得したものなのだろうか。今の守哉には、わからなかった。

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