-03-

 それ以降は、なんの会話もなかった。ただひたすら、補助頭脳が指示する方角へ進んでいく。

 やがて森が終わり視界がひらけ、かつての高速道路の名残と思われる高架にたどり着いた。

〈ここのインター跡を登り、道なりに進めば、ハルウシトンネルにたどり着きます〉

 遅れてついてくる未那美は息を切らしているが、守哉は構わずに自分のペースで坂を登っていく。登り切ると、遠くにくすんだ緑の山があり、橋の行き着く先に黒く穴が開いているのが見えた。

「ご、ごめんなさい……」

 急ぎ足で駆け寄ってきた未那美は、ぜいぜいと短い呼吸を繰り返す。だが未那美の歩幅を考慮する余裕は、今の守哉にはなかった。

 ひび割れたアスファルトの上を二人で歩いていく。足取りはどうしても重かったが、追手があるとも知れない状況、急ぐほかない。

 ずっと無言でただ歩き続けていくと、やがてトンネルの入り口にたどり着いた。

「暗い……」

 未那美が不安げにこぼす。

 山を穿つ古いトンネルから漂う、冷たく静かな闇のにおい。

 そこに、静寂を破る声があった。

〈守哉、後方にエンジン音を検知しました。索敵してください〉

 頭の中に響く補助頭脳の言葉。言われるがままに耳をすませると、確かに自分たちの背後、遠くから蒸気の吹き出す音が聞こえてきた。

「伊佐、走るぞ!」

「え?」

 戸惑う未那美の手を無理に引いて、守哉はトンネルの中へと駆けこむ。そして、そのまま両足筋組織のリミッターを解除してしまった。

「きゃあっ!」

 リミッターを解除し、人間の限界を超えた守哉の足についてこられるはずもなく、未那美は暗闇の中で盛大に転倒した。

「ご、ごめんなさい……!」

 まぶしいライトが二人を照らしだしたのは、その直後。近づいてくるエンジン音。守哉は、光に目を細めた。

「やっと追いついたわぁ」

 天井がなく、車高の高い無骨な蒸気四輪。ジープと呼ばれる型だ。その運転席から降りてきたのは、やせた白衣の男だった。

「守哉くん、私のことわかるかしらぁ?」

 語尾を伸ばした、くどく甘ったるい口調。張りのある低音が台無しだ。

「あの人は、出生省の幹部の綿津野宏わたつのひろし博士です」

 すりむいた――と言うには、いささか出血の多い膝を押さえながら立ち上がった未那美が、小声で教えてくれた。

 『博士』。確かに、くしゃくしゃの髪に銀縁の眼鏡は、いかにも研究者然とした風貌だ。先ほどの声の主とは思えない。

 綿津野は薄ら笑いを浮かべる。

「記憶喪失って、本当なのねぇ」

「伊佐を連れ戻しに来たのか?」

「単刀直入ねぇ。でもあなたのそういうはっきりしたところ、嫌いじゃないわ」

「質問に答えろ」

「あらやだ、怖いわぁ。まあ、様子見と足止めってところかしら」

「足止めだと?」

〈守哉、右前方に注意してください〉

 補助頭脳の言葉が聞こえるやいなや、トンネル内で炸裂音が反響した――銃声。

「未那美様に当てんなよ!」

「当たり前だ。それに、狙ったところで当たらん」

 聞き覚えのある声。最初の声は相馬、次の声は一之瀬か。綿津野にばかり気をとられていたが、車には先ほどの三人も乗っていたらしい。

 おそらく一之瀬が撃ったと思われる威嚇射撃に戸惑っているうちに、御角はドアを開けて車を降り、相馬は豪快にボンネットを飛び越えて綿津野の前に立った。

「ごめんね、守哉。未那美様は返してもらうよ」

 御角が手元で刃をきらめかせると、補助頭脳が頭の中でささやく。

〈投げナイフです。御角智長が最も得意とする武器です。ですが、御角智長自身の戦闘能力は高くありません〉

「行くよっ!」

 かけ声と共に、鈍色の刃が闇の中から滑りだした。

「伊佐、離れてろ!」

「は、はい!」

 足音が後方に遠ざかるのを確かめつつ、飛んできた三本のナイフを手刀で叩き落とす。

〈暗視モードオン〉

 突然、目が暗闇に慣れた。なにが起こったのかわからなかったが、無意識に視線は武器を探す。目に入ったのは、トンネルの壁を走る鉄のパイプだ。

 一も二もなく壁に駆け寄ってパイプを無理やり剥ぎ取って、手に馴染む長さにねじり切る。やや長めのパイプを正眼に構えると、不思議なほどしっくりきた。

 トンネルの中に、相馬の声が響く。

「お前のウリが超加速と馬鹿力なのはわかってる。となると、俺たちが勝つにはどうするか」

 よく通る声とは裏腹に、相馬は足音なく迫る。その相馬の作る死角を利用して、御角が次々とナイフを投げつけてくる。二人の洗練された連携に、守哉はたじろいだ。

「逃げられなくなるまで追い詰めるしかないんだよなあ!」

 相馬の楽しげな声と共に勢い良く投げ出された何かが、まっすぐに守哉を狙う。

流星錘りゅうせいすい、縄の先に重りをつけた忍具です。攻撃範囲が広く、振り回せば牽制の役割も果たします。忍者の末裔である相馬仁そうまじんは武芸巧者であり、注意が必要です〉

 補助頭脳のもたらす情報が脳に刻まれる。しかし守哉が強く意識したのは、武器の性能ではなかった。

(避け切れない)

 豪速の錘は、正確に胴をとらえている。体を反らせても、かわしきれない。錘は守哉の右腕をかすめ、激しい破砕音と共にコンクリートの壁にめり込んだ。こすれあった部分がひどく熱を帯び痺れる。

 自分の身体能力は常人のそれではない、らしい。視える攻撃ならすべて捌くことができる。ならば、あらゆる攻撃を視認可能にする『視界加速』は、まさに切り札だ。だが――

〈視界加速は脳への負担が大きく、多用すれば稼働限界に達する可能性があります。稼働限界を超えた場合、記憶障害が起こる可能性があります〉

 ぞくりとした。内心の不安を、記憶が消えることに対する恐怖を、補助頭脳に読み取られた。

 だが、たじろいでいる暇はない。距離をとっていた御角が地面を強く蹴り、一気に守哉の懐に飛び込んできた。左右それぞれの手にはナイフ。動きはまさに電光石火。守哉の鉄パイプを左で捌き、右で腕の腱を狙わんとする。打ち合う鉄が激しく火花を散らす。

「足元がお留守だぜ!」

 相馬の錘が守哉の左足めがけ、獲物を狙う蛇のごとく伸びる。錘をかわそうとすれば、その隙を御角につかれてしまうだろう。しかし、何もしなければ直撃だ。

(防がなければ)

〈オーダー受理。防御を行います〉

 守哉の頭の奥で、思考が鈍色に光る。

〈左脚強度最大〉

 ガキィンと、激しい金属音がトンネル内に響き渡る。

 錘は的確に守哉の左脚をとらえた。だが、守哉はなんの痛みも感じなかった。多少の衝撃こそあれど、体勢を崩すほどではない。

「お前の体、どーなってんの!?」

 面食らった相馬が素っ頓狂な声をあげる。同時に、相馬のフォローを期待していたであろう御角が一瞬ひるんだ。その隙を、守哉は見逃さない。

「はあっ!」

 諸手で振り下ろした鉄パイプが、御角の両腕をしたたかに打ちつけた。追い打ちで脇腹に蹴りを浴びせると、御角は壁に叩きつけられて地面に落ち、腹をおさえてもがく。

「ちょっとは手加減しろ、この野郎!」

 息巻いた相馬が駆け出し、勢いのままに流星錘を投げつけんと向かってきている。迎え撃つ姿勢をとるも――

「どけ、相馬!」

 突然響いた一之瀬の声に、戦いは遮られた。思わず相馬から目を逸らし、トンネルの奥に一之瀬の姿を探す。

 闇の向こうで、何かが小さく光った。

〈弾丸軌道予測――標的は伊佐未那美です〉

――銃口。

「なっ!?」

 ドン、と銃声。未那美が、自分が狙われていることに気づくはずもない。

 守哉は、感じた。考えるよりも速く――


視界加速ヴィジョン・アクセル


 ハイスピードカメラのごとく、緩やかに世界が動く。視覚情報が守哉の目から脳へ伝わり、すべてのものの速度が圧倒的に遅くなる――守哉自身も含めて。

〈筋組織制限解除リミッターカット

 守哉は、遅くなった時間を突き破って走る。人間の限界を超える。守哉の神経を走る信号が、彼の視能や筋力のリミッターを外す。他者からは、守哉が圧倒的なスピードで動いているように見えるはずであり、それは事実だ。

 それでも、間に合わない。くるくると回転しながら未那美に迫るライフルの弾は、守哉に視える世界でもなお速い。自分を狙った銃弾は、あんなに遅く感じたのに。

(伊佐――!)

 自らの体を盾にして、守哉は未那美をかばった。

〈身体強化間に合いません、ダメージに注意してください――視界加速ヴィジョン・アクセル解除カット

 右肩に衝撃が走った。まるで焼け焦げたかのように熱く、痛い。

「天橋さん!」

 その場に崩れ落ちた守哉に駆け寄ってきた未那美の顔は、暗闇の中でもわかるほどに蒼白だった。

「一之瀬、お前どうかしてるぜ」

 だが相馬の言葉に、一之瀬が動じる様子はなかった。

「言っただろう。未那美様を狙ったところで当たらぬと」

「銀次。守哉の能力を信頼するのはわかるけど、それじゃ冷静を通り越して冷酷だよ」

 守哉は目を疑った。

 先ほど壁に叩きつけられたはずの御角が、平然とそこに立っている。汚れているのは、コートだけ。

 闇の中に、沈黙が降りる。三人はすでに得物を収めており、戦意を消した。ただ、倒れた守哉を見下ろしている――守哉は、負けたのだ。

「未那美ちゃん」

 沈黙を破る声と、靴音。かすむ視界の端に、近づいてくる白衣が見えた。

「綿津野博士、天橋さんをこれ以上傷つけないでください! 罰なら、わたしが受けます」

「罰ぅ? あなたに罰を与えるわけないでしょう? あなたは大切な女の子なんだから……」

「それじゃあ、わたしが、神威ノ宮に戻ればいいんですか」

「ふふ……そうね。でもまだ、その時じゃないの」

「じゃあ、一体なんのためにわたしたちを追ってきたんですか? なんのために、天橋さんをこんな目に……」

「好奇心かしら。守哉くんを傷つけたら、あなたがどんな反応をするか見てみたかったの」

 薄ら笑いを浮かべながら楽しげに話す綿津野を、未那美は呆然と見つめた。

「未那美ちゃんは自分から神威ノ宮に戻る。そういう運命なのよ」

 そう言い残して、綿津野はジープの運転席に乗り込んだ。白いコートの三人も、彼について車に乗る。

「早く戻ってこい、天橋! あまり鹿島を心配させるな」

 去り際、車の上からそう言ったのは、一之瀬だったろうか。

 車の排気口から蒸気が吹き上がり、エンジンの音が遠ざかっていく。

 そして、トンネルの中は静けさで満ちた。


「天橋さん、気を確かに持ってください」

 未那美の悲痛な声が、はっきりと聞こえた。彼女の青ざめた顔もはっきりと見て取れた。

 撃たれてからほんの数分しか経っていないのに、身体機能が正常に戻りつつある。この傷の治り方は、明らかに尋常ではない。

「くそっ」

 立ち上がり、出口に向かって歩き出そうとすると、未那美がそれを制止した。

「天橋さん、だめです。そんな傷で……」

「痛みはない。歩ける」

「だめですっ!」

 初めて、未那美が声を荒らげた。

 彼女の意外な迫力に驚かされ、守哉は言葉を失った。

「その傷が痛くないなんて……嘘です」

 俯いた未那美が絞り出した声は、ひどく沈痛なものだった。

 頭の中に、静寂が満ちた。そうしてようやく、肩から滴り落ちる血がポタポタと地面を叩く音に気がついた。

「痛くないはず、ありません……」

「……ここは暗い。まずはこのトンネルを抜ける。明るい場所に出られたら、そこで休む。それでいいか?」

 彼女を気遣おうと思ったわけではない。ただ、自然と言葉がこぼれ出たのだ。

「……はい」

 未那美は頷いたが、表情は晴れない。

 胸の底に、得体の知れない澱が溜まっていくような気がした。

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