-02-
「さすがに、もう追ってこられないだろ」
守哉は先ほど少年たちと対峙した場所からだいぶ離れたビルの谷間で立ち止まり、そこで少女を下ろした。昼間だというのに、四角い空は薄暗い。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
弱々しい声で答える少女の肩はふるえていた。だが、守哉は構わず少女に尋ねる。
「さっきの三人はなんだ? なぜ君は追われている?」
少女は、きょとんとした顔で守哉を見た。なぜそんなことを聞くのか、とでも言いたげだ。
「記憶がないんだ」
あらためて口にすると、ひどく気が重くなった。
「記憶が、ない……? それじゃ、わたしのことも、わからないですか?」
「わからない」
「どうして……」
「それは俺のほうが聞きたい。俺のこの力はなんだ? 君はなにか知っているか?」
少女は言葉を詰まらせた。守哉も、彼女に何を聞くべきかわからなかった。
〈守哉、先ほど中断したオーダーの実行を再開してもよろしいですか〉
今度は頭の中からだ。なにがなんだかわからず、いらだちばかりが募る。
「勝手にしろ」
トゲ混じりの声で答えれば、守哉の補助頭脳と名乗る女――頭の中に聞こえてくる声は、滑舌の良い女が流暢に話しているかのようなのだ――は、こう返す。
〈曖昧なオーダーは無効です――『はい』か『いいえ』で入力してください〉
「じゃあ、はいでいい!」
「きゃあっ!」
「あ……」
あわてて少女の方を見ると、彼女は身をすくめている。
「ち、ちがう。君に怒鳴ったんじゃないんだ。その、なんというか」
〈それでは、五月十七日午前一時二十四分のオーダーを実行します〉
「わあっ、待て!」
〈インタラプト確認。オーダー中断。守哉、再開時には『オーダー』と言ってくだされば足ります〉
「わかった。えっと……」
守哉は、できるだけやさしく、なだめるように、少女に話しかけた。
「驚かせて悪かった。今のはその、頭の中に聞こえる声に返事をしただけなんだ」
まるで弁解になっていない。これでは幻聴と会話する怪しい男だ。
「ああ、もう……っ!?」
理解が追いつかない状況にやけを起こしそうになったその時、突如全身から力が抜け、守哉はそのまま、アスファルトの上にへたり込んでしまった。
「な、なんだ? 体が……」
「どうしたんですかっ!?」
全身がちりちりと静電気に炙られているかのように痛む。体がまるで言うことを聞かない。
「なんだかよくわからないが、力が入らない。立てない」
「ど、どうしたら」
「手を貸してくれ」
「はっ、はい!」
ぐっと差し出された手をとる。細く、傷ひとつない白い指先。守哉ははじめて、少女の姿をまっすぐに見た。
疲れた顔をしていても、にじみ出る気品は隠せない。無垢な白い花を思わせる、可憐で甘やかな顔立ち。緩く編まれた二本の長い三つ編みは烏の濡羽色。瞳は黒曜石のようにきらめいていた。白い上着と朱のスカートは巫女装束のようにも見える。
しかし、短めのスカートからのぞく脚は、すり傷と泥にまみれていた。
「て、天橋さん。そんなに見つめられると、なんだかはずかしいです」
「わ、悪い」
頬を染める少女の様子に、守哉の方まで気恥ずかしくなってしまった。
「え、えっと、せーの、で引っ張りますね……せーのっ」
手を強く握られ、ぐっと引っ張られる。脚はまだがくがくと震えているが、守哉はなんとか立ち上がることができた。「助かった」と礼をいうと、少女はそっと手を離し、守哉に問う。
「あの……私の名前、わからないんですよね?」
正直に頷く。少女はやはり悲しげな様子であったが、顔をあげて、守哉の目を見た。
「わたしは、
伊佐未那美――先ほど補助頭脳に教えられた名前と同じだった。どうやらこの補助頭脳は、守哉に嘘を吹き込むような輩ではないらしい。
「君は俺を知っているのか?」
「はい……あの、あとは歩きながら話します。もしかしたら、また、一之瀬さんたちが来るかもしれないですし」
「どこへ行けばいいんだ?」
「そ、それは、その」
〈守哉。五月十七日午前一時二四分のオーダーの中に、疑問への回答が含まれています〉
補助頭脳が横槍を入れてきた。だが、願ってもない申し出でもあった。声に出さず、頭の中で返事をする。
(それならまず、どこに向かえばいいかだけ教えてくれ。それ以外はあとで聞く)
〈オーダー受理。西のハルウシトンネルを抜け、第六廃棄街『稲穂』へ向かってください。守哉の自宅があります。そこで
「淡路博士?」
知らない名前。思わず口に出すと、未那美が驚いた顔をした。
「淡路博士のことはわかるんですか?」
「いや、わからない。今はじめて聞いた」
「聞いた……? 誰からですか?」
「俺たちの他には誰もいない。誰かいるとしても俺の頭の中だ」
前髪をかきあげて右のこめかみを指で示すと、未那美はぎょっとしたようだった。
「補助頭脳とやらは、第六廃棄街へ行って淡路博士なる人物と落ち合え、と言ってきている。伊佐もそれでいいか?」
未那美は答えない。
「おい、伊佐」
もう一度呼ぶと、未那美は慌てて返事をした。
「は、はい……それで、いいです」
「じゃあ、第六廃棄街を目指そう」
未那美は弱々しく頷いた。
「えっと……天橋守哉さんは、十六歳、二〇四〇年一月二十二日生まれ、みずがめ座のA型。お仕事は、
廃ビル街を抜けた先は、暗く湿った森だった。二人は足場の悪い森の中を並んで歩いていく。
「神威ノ宮というのは、このあたり……神威地区を治める行政府のことです。あらゆることについて、絶対的な権力を持っています」
未那美は、まるで本でも読んでいるかのようにすらすらと説明してくれた。
しかし、彼女が教えてくれたのは、それだけ。たとえば、
「どうして俺は記憶を失ったんだ?」
といった、守哉自身のことについては、
「……ごめんなさい、わかりません」
という返事。結局、わからないことだらけだ。
彼女になにをどう尋ねればいいか悩んでいると、補助頭脳が割り込んできた。
〈守哉が記憶を失ったのは、
「……またその名前か。その、鹿島恭介というやつと、俺は戦ったのか。それで、俺の記憶がないことと、そいつとの戦いには、なにか関係があるのか」
「天橋さん、鹿島さんと戦ったんですか!?」
補助頭脳に尋ねたつもりだったのだが、声をあげたのは未那美だった。しかし、補助頭脳は未那美の驚愕を無視して、守哉の問いに答えた。
〈はい。あなたの並外れた身体能力は、脳の機能を強化した結果得られたものです。代わりに、稼働限界を超えて行動すると、健忘に陥る可能性があるというリスクを背負うことになりました。原因は、ネオ・ロボトミーと呼ばれる強化手術に伴う脳の部分的損傷です〉
――脳の、部分的損傷?
「脳を、損傷……強化手術……?」
〈はい。しかし脳機能を限界まで稼働させることがなければ、記憶に支障は生じません〉
「今、まさに、支障が……」
全身が硬直した。冷や汗が頬を伝うのに、口の中はカラカラに渇いている。
補助頭脳は淡々と説明を続ける。
〈守哉は伊佐未那美を確保した後、第六廃棄街にある自宅へ向かおうと考えていました。自宅に戻ることができれば、
「黙れっ!」
〈インタラプト確認。オーダー中断〉
いつの間にか、守哉は肩で息をしていた――淀んだ空気が絡みつく。
「天橋さん……」
「……悪い。行こう」
声をかけてくれた未那美の方へ、振り返ることさえもできなかった。
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