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01-
錆びついた潮風が、鼻腔をくすぐった。ゆっくりと目を開いてみる。
仰向けで眺めた空には、黒い雲が立ち込めていた。
「ここは……?」
鉛のように重たい手足を無理やり起こして立ち上がると、眼下はまるで廃墟のような景色。朝もやのせいか悪天候のせいか、ビル群はどれも灰を被ったようにくすみ、遠くの海も色あせて見える。
「ここはどこだ?」
〈
独り言に答える声が、頭の中に響いた。驚いて辺りを見回すも、声の主らしき姿はない。
「誰だ、どこにいる! 姿を見せろ!」
〈目視は不可能です。確認の際は右こめかみに触れてください〉
「右こめかみ?」
いぶかしみながらも右のこめかみに触れると、ぞっとするような感触があった。
人の肌とは明らかに違う、冷たく硬質な手触り――何かが、埋まっている。
「なんだ、これ……」
〈
「これまでの記憶……?」
記憶、記憶。
ない。
何かを思い出そうとすると頭の奥に鋭い痛みが走り、ひどい耳鳴りがした。立ちくらみ、その場にくずおれる。
「わからない、何も……守哉というのは俺の名前なのか?」
〈はい――フルネームは
「てんはし……もりや」
口にすると、確かに慣れ親しんだ響きに思えた。
一つ息をつき、自分の身なりを確かめる。身に纏っていたのは、ところどころ焦げた痕のあるコート。汚れていないところは純白で、どこか軍服を思わせるデザインだ。
黒い髪が少し長めなのは、こめかみにある異物を隠すためか。
〈それでは、五月十七日午前一時二十四分のオーダーを実行し――〉
守哉が思案しているところに、補助頭脳の声が割り込んできた。
「おい、何してる」
〈インタラプト確認、オーダー中断〉
声はそこで途切れた。
「お前はなんだ。補助頭脳だと? 俺に何をさせるつもりだ」
〈補助頭脳から守哉になにかをさせることはありません。守哉が五月十七日午前一時二十四分に入力した命令を実行しようとしています〉
そう言われても、わからない。守哉には今日が何日なのかもわからない。
深いため息を漏らし、寄る辺なくあたりを見渡す。
すると、廃ビルの足元で動いているものが見えた。
「……人?」
油の染みたアスファルトの上、少女がひとり。緩く編まれた二本の黒いおさげをせわしなく揺らしながら、走っている。
彼女を見た瞬間、雷にうたれたような衝撃があった。
必死の表情で逃げるように駆ける彼女を見ていると、胸の奥がざわざわした。記憶がないにもかかわらず、心が暴れだすような。
「……あの子は、誰だ? 俺は、あの子を、知っているのか」
〈
補助頭脳がすぐに答えた。伊佐未那美、わからない。だが、やはり何かが引っかかる。
「あの子を、守ればいいのか……」
少女は、三人の少年に追われている。おそらく少女は、彼らから逃げているのだ。
屋上から見下ろした地上は遠い。
だが、飛べる気がした。
ためらいはなかった。壊れかけたビルのフェンスを無造作に引き裂き、そうするのが当然であるかのように、身体を宙へ躍らせる。激しく風を切るも、恐怖はまったくない。やがて地面が近づき、難なく着地。アスファルトがひび割れめり込んだが、体への衝撃は小さかった。
逃げていた少女も、追っていた少年たちも、全員が一斉に動きを止めた。
「天橋……さん?」
少女は大きな黒い瞳を見開いて、呆然と守哉を見つめた。
突如現れた守哉に驚いているのか、それとも怖れているのか、少女の視線の意味はわからなかった。だから、守哉は正直に告げた。
「なんだかよくわからないが、君を守らなければいけないらしい」
守哉は少女を背にかばう。目の前に立ちはだかる三人の少年は、守哉のものと似た白い服を纏い、腰に刀を帯びている。守哉に武器はない。
「……天橋」
青い髪の少年が、腰のホルスターから抜き放った拳銃を守哉に向けた。
「お、おい、
いさめたのは、金髪の少年。長い前髪を留める赤いヘアピンが目立つ。だが、一之瀬と呼ばれた青い髪の少年が聞き入れる様子はなかった。
「黙れ、
すると、後ろに立っていた小柄な赤毛の少年が口を開いた。
「
「すまぬ、
青髪が一之瀬、金髪が相馬、赤毛が御角。守哉の中に、三人の記憶はない。だが、この三人は守哉を知っているような口ぶりだ。
戸惑う守哉を、御角が悲しげに見つめる。
「守哉、僕には君がなにを考えてるのかわからないよ。どうして
御角の問いの意味など、記憶のない守哉にはわかるはずもなかった。ただ、『恭介』という名前は、胸にひっかかった。
「お前たちは何者だ? どうしてこの子を追ってる?」
守哉が逆に問い返すと、金髪の――相馬と呼ばれた少年が、きょとんとした顔で守哉を見た。
「はあ? 寝言は寝てから言えよ、天橋」
「……もういい。口さえきければ話はできる!」
「やめて!」
背後の少女が叫ぶ。しかし、銃声は無慈悲に鳴り響いた。
その瞬間――守哉の頭の中で、思考が光った。
〈右腕強度最大、
それは、声ではない。光のように速い信号。右こめかみがチリっと焼け付いたその一瞬、視界の正面だけが極彩色に染まり、周囲はぼやけた灰色になった。
光の三原色、それぞれの波長が補助頭脳によって超高速で分析され、視神経を駆け抜け、無意識が腕に伝える。回転しながら守哉に迫る銃弾の動きは、地を這うミミズのようにゆらゆらと遅い。
視える――!
そう意識しただけで、守哉の右の手のひらは自分を狙った弾丸を受け止めた。速度を失った弾丸は、アスファルトの上に力なく落ちる。
「さすがだな、天橋。だがっ!」
一之瀬は再び発砲しようとする。だが、みすみす撃たれるのを待つ理由はない。
〈
体が震える。全身にほのかな電流が走り、万能感に満ちていく。
のろのろと迫る銃弾を受け止め投げ捨て、背後にいた少女を抱え上げる姿勢をとる。そこで、
〈
通常速の世界に引き戻された反動か、重力が体にまとわりつくような感覚があったが、こらえて少女を抱き上げた。
「えっ!?」
守哉の時間に遅れて驚いた少女も、白いコートの三人も無視して、守哉は思い切り地面を蹴って飛び上がった。
「逃げるのか、天橋っ!」
足元から、一之瀬の怒声が聞こえる。
「逃げる以外に、どうしろっていうんだ」
そう独り言のようにつぶやき、守哉は少女を抱えたままビルの壁を駆け上っていく。屋上でいったん体勢を整え、今度は別のビルの屋上へと飛び移る。それを繰り返して、逃げる。
腕の中の少女が、守哉の服をぎゅっと握った。
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