第37話
「俺は安藤 光司といいます。あなたの名前は?」
彼は、私のカメラの描かれたページを開き、左手に持つ鉛筆を削りながら訪ねてきた。
鉛筆削りは昔ながらの手で回すタイプね。
長い間使い込んでいるのが分かる。
彼は小さい頃から、こうして何枚も絵を描いてきたんだと思う。
でも…、目が見えないまま?不思議な人。
というか、彼の絵は私が写したい写真そのもの。
絵と写真という違いはあるけど、目指すところは一緒。
うーむむむむむ。
「私は、
「美波さん、ではちょっと準備します。あの、ちょっと顔とかに触れますけど良いですか?そっと触りますけど、あの、触らないとわからないので…。」
「ベッタリ触ってもらってもOKよ。安藤さんの作品、もっと知りたいですから。」
「と、取り敢えず少し前に来てください。」
彼は鉛筆を置くと、両手を前に突き出す。
そこへ顔を持っていった。
指が触れるとピクッと反応する。
「もう少し前に…、そう、そこで少し待っていてください。不快だったら言ってくださいね。」
「大丈夫です。」
彼は触れるか触れないかぐらいの感覚でスーっと輪郭をたどる。髪の感じや肩や鎖骨の付近まで。ちょっとくすぐったいのと、いくら見られてないとはいえ何だか恥ずかしかった。
両手がほっぺたのところで止まる。
「美波さん、写真のどういうところが好きですか?」
突然質問してきた。
「私が切り取った瞬間の映像で、多くの人を感動させられるところです。」
「俺はカメラで写真を撮ったことがないけど…、今度やってみようかな。」
「またまた。さっきの庭先の絵、あれは私が撮りたい一枚です。あなたは脳内にあるカメラでいくつもの写真を撮ってると思いますよ。」
「あぁ…、そうかもしれないね。」
ニコッとした彼はちょっと可愛かった。
つられてフフフと笑みが溢れる。
その時サッと顔の全面を指が滑った。
「はい、終わりです。描きますので少し待っててください。あ、どうぞ、縁側に座ってて。」
私は彼の隣に座り、スケッチブックを凝視した。
彼は目は閉じているけど目線をスケッチブックに向けている。
左手で位置を調整している?ピタッと動きが止まると、もの凄い勢いで右手を走らせた。
まさしく走っている。
なにこれ…。
まるで、最初からスケッチブックに絵が描かれていて、それをなぞっているかのような無駄の無い動き。
消しゴムを使うこともないほどの正確さ…。
そこで気付いた。
そもそも消しゴム持ってない…。
そして彼の横顔を見た。
ニッコリ微笑んでいた。
楽しそう。
実に楽しそうに描いていた。
鉛筆の芯の先端に全神経が集中しているのが分かる。
だけど、誰も近寄らせないほどの気迫と迫力。
圧倒される。彼の力に圧倒される。
目が見えなくなっても作品への執着心…、いや…、作品への愛情…。
好きじゃなきゃ、命を削るほどの力を込められないよ…。
私には…、そんな覚悟は無かった…。
思い知らされた。作品に対する愛情の違いを。
こんな単純だけど一番大切なこと。
髪の毛の一本一本、服のボタン一つにまで命を吹き込む作業。
そして…。
「あ…。あぁ…。」
そこにはカメラを両手で持ちながらニッコリ笑っている私がいた。
絵の中の私が呼吸している…。
絵の中の私の笑い声が聞こえる…。
絵の中の私は楽しそう…。
絵の中の私が、今にも動き出しそう…。
体温まで感じ、髪は今吹いた風で揺れそう…。
絵の中の私がささやいている。
あなたなら最高の一枚を生み出せるよ、と。
「う…、ぅぅぅぅ…。」
私は突然涙が溢れ出し、両手で顔を覆った。
ウワァアァァァァァアアァァァァ…。
「私…、本当は写真家になるの諦めようって思っていたんです…。プロの人と同じ場所で撮影したら…、全然違くて…、技術もセンスも無いって…。」
私はいつの間にか思いの丈をぶちまけている。
カメラが好きで小学生ぐらいから安いカメラ貰ってそれから撮影にはまった。
高校も大学も写真部に入って、知識や技術や経験も身につけたつもりだった。
だけど打ちのめされた…。
上には上がいるというより、上しかいなかった。
もうカメラは趣味だけにしよう…。そう思ってこの旅行にきた。
「でも…。私…、諦めない。絶対に!そして安藤さんをアッと言わせて見せる!」
「それまでに目が見えるようにしておきます。」
「あっ…。」
私ったら、本当にバカ。
「気にしなくていいですよ。来年には治してみせます。」
「じゃぁ、それまでに、少しでも成果が出るよう頑張ります。」
いつの間にか彼のペース。
彼の世界に引きずり込まれているのに気付く。
さっき突然カメラの話をしたのだって、私の笑顔を誘い出すためかも。
これも彼が今出来るテクニックの一つだよね。
こういう細かいところまで気が利くというのは、やはり一つのセンスだと思う。
私はもうネガティブにならない。
私は私。ポジティブにいくんだ。
上しかいないなら、もう落ちることはないじゃない。
恐れるものはなにもない。
そしていつか自分の作品を前にして笑ってみせる。
そう、この絵のように。
「あ、あの。この絵、売ってもらえませんか?」
「いえ、差し上げます。」
「そんな!この絵は普通の絵じゃないです。買う価値があります。」
「いやいや、うちのおばあちゃんが見たら、普通の絵ですよ。美波さんが見れば、もしかしたら価値ある絵かもしれませんね。」
やられた。ホントやられた。とても素敵な彼。
作品を愛するという共通目標もあるし、作品を作り出す共感もあるし、ライバルでもある。
ちょっとトキメイた。
「えーと、あの。もしかして彼女とかいますか?」
私は何を聞いてるんだ!?でもオロオロする前に答えられちゃった。
「はい、います。」
そう言った時の彼の顔は、今まで見せたどの笑顔より爽やかで素敵だった。
あぁ、敵わないなぁ、彼女さんに。
そう一瞬で思ってしまった。
「そうかぁ。残念。でも、アーティストとして、ライバルとして、友達になってくれませんか?」
「それは構わないですよ。目が治るまでは電話でお願いしますね。」
「はい!」
そんな時だった。部屋の奥から老婆が現れる。
「あらあら、お客さんかえ。素麺あるで、一緒に食べていき。」
流石にそれはと思ったけど、安藤さんのすすめもあって、おばあさんと3人で一緒に食べた。
エアコンが無く、古い扇風機が首を振りながら風をくれるなか、平凡な会話をしながら食事をする。
そこへバイクのエンジン音が徐々に近づいてくると、家の前で止まった。
ん?と思って外を見ると、道路の反対側の空き地に人影が二つ見える。
って、あれ?
「
半日以上ぶりに会う親友の名を呼ぶ。
向こうも気が付いて手を大きく降っている。
紫と駐在さんは、どうやらこの家に用事があったみたい。
そっか、安藤さんは駐在さんを親友って言っていたっけ。
軽い挨拶が終わると、二人は縁側に座って食事が終わるのを待っていた。
お昼ごはんは食べてきたみたい。
二人は親密になっているのが分かる。
上手くいってよかったね。ちょっと羨ましい。
けど、私は少し自分と付き合ってみるよ。
後でどこまでいったか聞こーっと。ウヒヒヒ。
昨日は寂しかったけど一人で寝たんだからね。
成果は確認しなくっちゃ。
「…………。」
そう思っていたら、隣の部屋から何か聞こえた。人の声?
すると安藤さんが四つん這いのまま、手探りで隣の部屋のふすまを見つけ、そっと立ち上がり最小限だけ開けて中に入る。
「んー!んー!!」
何が起きているんだ?安藤さんが口を塞がれたようなうめき声が聞こえる。
何だか食事どころではなくなってきた。
暫くすると静かになり、小声で会話があったあとふすまが開いた。
「あら、こんにちわ。」
そこにいた女性が安藤さんの彼女だと直ぐに分かった。
微妙に私に敵意がある。
もしかして…、聞かれていたかも…。ゴクリ…。
ままままぁ、振られたんだし、別にいいよね、友達ぐらい。
彼女は「アレ持ってきますね。」とおばあさんに伝え、奥の台所の方へ消えた。
昔ながらの土間の台所のようだ。
カランカランと木製のサンダルの音が聞こえ、冷蔵庫から何か出して準備し始めた。
しばらくすると、小さめの器におろし大根と梅干しの潰したようなのが入っている。
「瞳、ありがとー。」
瞳と呼ばれた彼女さんに、持ってきてもらった薬味を入れてもらうと、安藤さんは直ぐに箸をつけて素麺のつゆに入れて食べ始める。
こんな食べ方は初めてだけど美味しそうだった。
真似して食べてみる。
「おいしー!」
暑い夏にはこのサッパリ感がピッタリ。
梅は酸っぱ過ぎず甘みもあるのがいい。
「梅干しはね、おばあちゃんが漬けているんだ。」
彼の言葉に、市販の梅干しでは真似できないかもなぁって思った。
だけど美味しい。食も進むね。
瞳さんも一緒に食べる。
あーんとかして魅せつけちゃって…。
でも、少し経つと違和感を覚える。
魅せつけるというより、今を全力で今この瞬間を楽しんでるようにも感じる。
二人の影には切羽詰まったような、印象すらある。
何を焦っているのだろう…。
この理由については、後日、紫から聞くことになる。
もちろん二人の許可をもらって。
それなら納得出来る。
二人が急いで愛し合っていることも、瞳さんが必死で働くのも、安堵さんが命を削る勢いで絵を描くことも…。
ご飯を食べ終わると、彼女さんが麦茶を人数分出してくれた。
直ぐに洗い物もする。まるで家族の一員みたい。
その間安藤さんはずっと彼女さんの居る方向を向いている。
あぁ、二人の間には絶対に割り込めないなぁ…。
彼女さんが戻ってくると、駐在さんと紫の話題で盛り上がった。
「良かったな、類!」
「おうよ!」
安藤さんは本当に嬉しそう。
そして提案して二人の絵を描くことになった。
私の時と同じように触れるか触れないかぐらいの感覚で二人を探る。
彼女さんに連れられてバイクも探る。
どうするんだろう?と見ていたら、絵を二枚描いた。それぞれ別に。
えー?どうして??
一緒に一枚の絵にすればいいじゃんって思ったけど、この二枚の絵は二つで一つだと気付いた。
右に駐在さん、左に紫。
絵を合わせるとわかるけど、二人は腕を組んでいて、相手の肘がお互い写り込んでいる。
そして二人の後ろには真ん中で見きれたバイク。
一枚ずつ描いたのにピッタリと合うこの絵は、やっぱり目が見えているでしょ!と突っ込みたくなるし、見えていたとしてもまったく別々に描かれた絵がこれほど細部まで合わせる事が出来ること自体、もはや異常だと思った。
才能?努力?センス?
今まで思っていた私に足りないもの。
だけど今回は、二人に対する愛情が成せる技だと分かる。
ライバルは強敵だなぁ…。
彼が雲の上の存在なら、私は道端の雑草。
名前も知らない、誰にも気付かれず、見ても3歩も歩いたら忘れ去られる存在。
だけど絶対に花を咲かせてやる。
小さくて汚い花かもしれないけど、絶対に咲いてみせる。
二人は相手の絵を持ち帰ることにした。
なんだろう…。本当にここに来て良かったと思う。
私はこの気持のまま川辺へ降りて写真を撮った。
その写真は、少しだけ理想に近づいていると感じさせる1枚だった。
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