第10話

 お客さんだと思われる男の人は、何故か俺の名前を知っていた。

「タロウ、おいで。」

そう言うと柴犬は彼の足元へとやってきた。飼い主のようだ。

瞳ちゃんもタロウと名前を呼ぶと、柴犬はご主人の顔を見た後にスタスタと彼女の元へやってきた。

「可愛い~。」

と言った彼女は再びタロウの全身を撫で回す作業を続けた。


でも、俺の名前を知っているおじさんは見たことがない。

間違いなく知り合いではない。かなり警戒しているつもりだ。

「ちょっと、君の絵を見せてくれないか?」

「お断りします。」

俺は即答した。おじさんはキョトンとしていたが、急に笑い出した。

「ハッハッハッ、急に失礼だったね。そうかそうか、自己紹介していなかったね。私は吉川 実と言いますね。ここにはね、絵を描くのが大好きな少年がいるという噂を聞いてね、会ってみたいと思ってね、だから東京からやってきたのね。」

語尾に「ね」を多用する気持ち悪いオッサンだと思った。


「光司君、見せてあげてもいいと思うよ。犬好きや猫好きに悪い人いないもん。この子も本当にいい子~。」

急に子供っぽいことを言ってタロウを撫で回しながら「よーしよしよしよしよし」とか言いながら全身を撫で回して可愛がっている。

俺はタロウに瞳ちゃんを取られたような気持ちでいたのかもしれない。

だからおじさんに良い印象を持っていない。

そう結論を出して邪念を振り払い、そっとスケッチブックを差し出した。

「どうぞ。」

ぶっきらぼうさが出ていたかもしれない。お客さんかもしれないということを忘れていた。


「おやおや、すっかり嫌われてしまったね。タロウに大自然を味合わせてやりたいってね、そういうのもあったんだけどね、でもね、本当に君に会いにきたんだよ。」

そう言って、今描き上がったばかりの瞳ちゃんとタロウの絵をまじまじと見ていた。

「あぁ、なるほどね。君はタロウに嫉妬していたんだね。だからトバッチリでね、私も嫌われたんだね。」

「な!?」

まるで見透かされてるような気がした。事実、瞳ちゃんの無邪気な表情が可愛いと思ったけど、タロウに嫉妬って…、相手は犬だぞ。

まぁ、でも、心当たりがあるし、何となく自分でも納得した。


その言葉を聞いて瞳ちゃんがくいついてきた。

「光司君嫉妬してくれたの?ほんと?」

そう言いながら俺の絵を覗きこんだ。

「ふふふ、本当だ。」

「おや、お嬢さんにもわかるのかね?」

「うん、光司君の絵には色々なメッセージが埋め込まれてるの。」

「ほぉほぉ。面白いお嬢さんだね。」


二人の会話に割って入る。

「どうしてそんなこと分かるのさ。」

瞳ちゃんは何とな~くと答えた。おじさんは真顔になった。その真剣な眼差しは全てを見透かすようだった。

「君の絵の中のお嬢さんの線は、実に生き生きとしている。強弱や濃淡をうまく使っていて躍動感に溢れ、とても気持ちが込められている。見ていてこちらも笑顔になるほどにね。だけどタロウの線はリアルだけど無機質。ただ模写しただけ。興味の差でこれだけ絵柄は変わってくるのさ。光司君もタロウの方は気に入ってないでしょ。」

こいつ何者だって思った。

こんなに具体的かつ詳細に俺の絵を指摘してくるのは美術の森田先生ぐらいだ。

まさか…。


1枚めくって、今日描きかけの旧校舎の絵をみている。

「うん。これはここで一度手を止めて正解だね。このまま描き続けたら残念な絵になるところだったね。理由の詮索はしないけど…、こういう時は気分転換するといいのね。ちょっと来なさい。」

俺は心のなかを見透かされたようで気分が悪かったが彼の後に付いていった。

さっきの的確な絵の指摘。それが気になっていて、彼が何を言うのか興味があったからだ。

瞳ちゃんとタロウも、なんだろうねーとか言いながら付いてきた。


おじさんは旧校舎の壁を触れる位置まで近づくと、おもむろに軽く叩いてみたり、手のひらや指の先でじっくりといろんなところを触り続ける。

「君も触れてみなさい。」

なんだよ今更、と思いながら壁に触れる。

木造なので、当然木の感触が伝わってくる。

でも森に生えてる木とは違い非常に乾燥しているのが分かる。

カラッカラの感じで軽そうでスカスカな印象だ。

塗装は宿にしたときに塗り直した新鮮な感じがする。

表面はツルツルだけど古い塗装を剥がさないでそのまま上から塗ったから、学校の時の古い塗装が凹んでいるところでは見えてしまっている所もある。

釘は小さく目立たない。

ところどころ木がボロボロになっていて刺が鋭いところもあれば、欠けてはいるものの長い間放置されて角が取れて丸くなっている部分もある。

ふと足元から花壇の花の匂いがする。青臭いけどちょっとだけ甘い香りがした。

陽はまぶしく熱く照っていた。そしてゆっくりと流れる蒸し暑い風が頬を撫でた。


「どうだい?実際に絵にする前に、その場所に立ち空気を感じ、対象を手で触れてみると、見るだけじゃ分からない情報もわかるようになるだろう。その場所の匂いや状況、雰囲気…。対象物の質感や歴史。それは実際にそこにいって触れないと分からない情報だね。さぁ、さっきの場所に戻ってみようかね。」

一生懸命壁を触っていた瞳ちゃんは何が何だか分からないでいた。


俺は軽い衝撃を受けている。

そして絵の続きを描き始めた。だが、さっきとは描こうとする校舎の情報量がまるで違う。

(わかる…。この絵の封じ込めたい状況や雰囲気が…。わかる…、わかる…。どうすればいいかわかる…。あぁ、これだ…。これを描きたかったんだ!!)

ザッと描き上げた絵はパッと見た目は今までと大差はない。

「今までと違うかな?」

瞳ちゃんに見せた。彼女はタロウから目を移し絵を見た瞬間、ハッと声を殺した。

「ああぁ…。何だか眩しいぃ…。」

彼女は目を覆い、でも隙間から絵を凝視している。絵から目を離せないような感じだ。そしてボロボロと泣き始めてしまった。

「瞳ちゃん!?」

「ううん、違うの…。絵が素敵で素敵で…、眩しくて…。」


おじさんは口を開けたまま目をまるくしていた。

「こりゃぁ…。たまげた…。」

そして肩を震わせながら笑い出した。

「やっと見つけたね!やっと…。やっと!」

そして薄っすらと浮かべていた涙を袖で拭くと、

「光司君、私の後継者になってくれないか!?」

とんでもない事を言い出した。

「後継者?」

「いや、君は私を軽く超える才能を持っているね!君の描く絵で世界中を感動させてみないか?」

「・・・・・。」

何のことだか訳がわからない。

「お断りします!」

俺は目一杯拒否した。

俺にはまだやらなければならないことがある。


「あぁ…。すまんすまん。答えを急ぎすぎたね。私はね、これでも大学で美術を教えているのね。洞戸中学校の美術の森田先生いるでしょ。彼はね、私の教え子なのね。それでね、選考会で大人が描いたと判断されている君の絵をね、私のところに送ってくれたのね。私はね、光司君の絵を見てね、君の絵に惚れてしまったのね。それでどうしても会いたくてこうしてやってきたのさ。」

だいたいの事情はわかったけども、話しが唐突で大きすぎて何が何だかわからないし判断出来ないでいた。


そんな心情を簡単に伝えると、おじさんは両親に会いたいというので家の場所を教えた。

とにかく話しが飛びすぎて俺にはよくわからない。

「じゃぁ、私が光司君のお母さんと会っている間に宿題をあげるのね。」

おじさんはニコニコしながらそう言うと、旧校舎を指さした。

「30年前のこの場所を想像して描いてごらん。」

「そんなこと言ったってわかるわけないじゃん。」

また即答した。

確かに、そこにどんな生徒がいたのか、どんな服を着ていたのか、髪型は?この校舎はどこまで綺麗だった?花壇はどうなっていた?疑問は付きない。

「この宿題は答えがないんだよね。だっておじさんもわからないからね。だけど、想像して1つずつ描いていってごらん。さぁ、想像して…。教室では授業が行われている。黒板の前には先生が授業中で何かを書いているのを生徒達が真剣に見つめている。グランドでは体育の授業が行われていて生徒達が走っている。花壇には今とは違う花が植えられていて、旧校舎は今よりは傷とかは少ないかも…。どんどん想像してどんどん描き込むんだ。それと、お嬢さんはタロウと遊んでいておいてね。」

「はい!」


瞳ちゃんは再び無邪気に笑いながら、タロウを連れてグランド中を歩きはじめた。

その姿を追いながら頭の中では色んな映像が駆け巡る。さっきとは違って現実的な情報は一切ない。

旧校舎は、恐らく今とそんなに変わらないだろう。

そんなところからぼんやりと想像していくと、教室の窓の中に先生らしき大人が想像できた。そして生徒たち。

外では上下白の半袖短パンで赤白帽をかぶった生徒が走る。想像が映像になっていく。


この窓は何回野球のボールで割られただろう…。

この壁は何回サッカーボールがぶつけられただろう…。

ここにある貯水池のフェンスはあっただろうか…。

玄関脇にある木はどのぐらいの大きさだっただろう…。

俺は30年前を想像し一気にスケッチブックへと描き込み始めた。

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