第11話

 彼は何かに取り憑かれたかのように、スケッチブックの上で手を踊らせている。

今は集中出来るように一人にしてあげた。

光司君のことを知っていたおじさんは、東京の美術大学の教授らしい。

その人が彼を後継者にしたいと言っていた。

具体的にはどんなことなのかは分からないけど…。


でも…、そっか…。彼の将来に一筋の光が刺したのかも…。

これからも絵に関わっていけそうなことだけは分かった。

正直、羨ましかった。私にはそんな未来はない。

だけど、せめて彼が絵と一生付き合っていける環境が整いそうなことは、嬉しかったし安心したよ。

自分が居なくても彼には道筋が出来たと思ったからだ。

あぁ、大人になった光司君の描く絵が見たかったなぁ…。


 タロウのリードを持ちゆっくりとグランドを回る。

宿の入口には白井おばさんがいた。

「あら?お客さんは?」

「光司君のお母さんに用事があるって出かけました。」

「あら、そう。お知り合いだったのかしら。じゃぁ、帰ってきたらお昼ごはんにしましょ。」

「はーい。伝えておきます。」

よろしくねと言うと再び建物の中に消えた。奥からは美味しそうな香りが漂ってきていた。

「タロウも、もうちょっと我慢しようね。」

ワンッ

まるで分かっているかのように小さく吠えた。


建物の前は花壇になっていて、色とりどりの花が植えられていた。雑草が抜かれていて手入れが行き届いているのがわかる。

そのまま宿の裏側に回ってみた。

屋外トイレと倉庫が並び、そして旧給食センターがあった。ここからいい匂いがしている。

更に進むと小さな池があり鯉が泳いでいた。その隣には動物の小屋があり、そして車庫がある。

動物小屋は空になっている。昔は、鶏やウサギなんかが飼われていたのかも。車庫には軽自動車が停まっていた。白井おばさんのかな。


体育館をまわりグランドに戻ってきた。

斜向かいの桜の木の下では彼が一心不乱に絵を描いている。

だけど今までにない、何というかオーラのようなものさえ感じる。

一度彼の元に戻ることにした。

顔が分かるぐらい近づくと、彼から突然オーラのようなものが消えた。

そして両手でスケッチブックを顔の高さまで持ち上げてジッと見つめている。

後数メートルという距離まで近づいたところで彼は突然大声で泣き出した。


「ウワーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン…。」

叫びにも近い。

どうしたのかと急いで近づく。

そして原因であろうスケッチブックを覗きこんだ。


「!!」


私は目を奪われた。

そこには確かに昔の校舎が蘇っていた。

古臭いデザインの体操着を着た、元気よく走り回る生徒、教室の窓の中では授業が行われていて、周囲の風景もどこか若々しく見える。今は大きな木も、まだ成長途中で、今はボロボロの小屋はまだ新しい。


何故か懐かしく、昔どこかで見たんじゃないかという錯覚さえ感じだ。

少し埃っぽく古めかしいその絵は、そう、30年前にここで描かれたもののよう…。

そこへ、さっきのおじさんが帰ってきた。

「良い匂いがするね。お昼ごはんにしょうか。」


 俺はすすり泣きながら瞳ちゃんに連れられて食堂へ行った。

川魚と野菜をメインにした簡素だけども地元の料理が並べられた。

いただきまーす、と元気な声は瞳ちゃんだ。

俺はとてもじゃないがそんな元気はなかった。

今は兎にも角にも、この謎のおじさんの正体が知りたかったし、絵について詳しく話を聞きたい。

じゃないと、この有耶無耶な気持ちを整理できない。


「うーん!とても美味しいのね。」

おじさんは料理を楽しんでいる。

タロウには犬用のご飯を白井おばさんは作ってくれていた。

それを美味しそうにかぶりついている。


「ふふふ。私のことが気になって仕方ないようですね。」

おじさんの言葉にドキッとした。

「私も絵を描くのね。」

やっぱり、と思った。

「一応、偉い勲章なんかもね、もらっててね、でも、絵を描くのに勲章はいらないね。ただ、そのおかげでね、美術大学の名誉理事長も兼任しているのね。」

彼は静かに語っているが、語尾に「ね」がつく度にイラッとしながらも我慢して聞いていた。


「だからね、今、私が君をね、今日から生徒にするって言えば、飛び級で美術大学に入学することも出来る権限を持っているのね。」

「えー!?」

瞳ちゃんが驚いていた。偉い人だとは思っていたけど、これほどだとは俺も思ってなかった。

「さっきの宿題を見せてごらん?」

静かにスケッチブックを渡す。絵を描くのに肩書きは必要ないけど、美術の先生だけが俺の評価をしてくれると思っている。中学に入ってそう感じた。

「ふんふん…。うーーーむ…。うーーーーーーーーーーーーーーーーーむ!ほーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

おじさんは興奮しているようだった。


「100点満点中ね…。」

ゴクリ…

「1000点をあげよう。」

「!?」

うむうむと、何かに納得し、ニヤニヤしながら絵を凝視している。

「私の想像以上ですね。もう君は私を越えようとしているのね。」

「先生…。茶化さないでください。」

素直な感想だ。

だけど先生は静かに首を降った。


「絵全体から溢れ出す躍動感、その場にいるような臨場感、自分が見たような錯覚すら起こす雰囲気…。自然の持つ生命力、人の持つ生命力、歴史を刻む建造物…、全てが生きているようだ…。」

「私はその絵が30年前にかかれたものだと感じました。」

瞳ちゃんの感想にも彼は大きく頷いた。

「光司君はね、良き理解者もそばにいるのね。絵描きは評価されて次にすすめるのね。」


そしてパラパラと今日より前の絵を見ていく。うんうんと頷きながらじっくりと見ている。何だかちょっと緊張する。

ふと手が止まり、メガネを二度かけ直した。何か気に入らない絵があるのだろうか…。そんなことを思っていたら、おじさんは口を手で押さえ何かを我慢している。

「絵から愛が…こぼれている…。」

彼の足元に何かが落ちる。ポタポタと…。涙だった。おじさんは泣いていた。


見ている絵は、俺が初めて瞳ちゃんと出会った時に描いた絵だった。

異常な状況に、白井おばさんも絵を覗きこんだ。

「まぁ…。若かったころを思い出すわ。胸がキュッと締め付けられるよう…。」

先生は落ち着きを取り戻し、残りの絵を見終わると、スケッチブックを俺に返してくれた。


「さっき見せて貰ったスケッチブックの絵はね、彼女が登場してから突然スケールアップしているのね。もちろん、君の心情の変化もあったのかもね。さっきの瞳ちゃんとタロウの絵も、橋を下から描いた絵も、今までに無い作画や作風だしね。」

「俺は…、宿題の絵が完成して、どれだけ未熟だったか知りました。」

グッと拳を握る。

「もっと絵のことを教えて欲しいです!」

うんうんと今までにない笑顔で、その言葉を受け止めていた。


「でも…。俺にはまだやり残したことがあります。」

先生は静かに俺の言葉の意味を汲み取ろうとしているように見えた。

「うむ。わかったのね。光司君が納得のいく状況になったら、私を尋ねなさい。連絡先はお母さんに渡してあるのね。」

うふふふ、とか気持ち悪い笑い声を残して食事を続ける先生。

「やり残したことって…、まさか私の…。」

彼女が俺の言葉に気付く。まさしくそうだった。


最悪の場合として彼女が倒れるその瞬間まで、俺は傍にいてあげたいと思っている。

だけど、彼女を知る人の中で、多分俺だけが彼女が救われる世界もあると信じている。いや、信じたい。


「そうだよ。」

俺は隠さずハッキリ言った。彼女は既に涙ぐんでいる。

自分のせいで俺が足止めされていると考えれば辛くなるだろう。

だけど俺の本心は違う。

「私のせいで…、光司君が…。」

「それは違う。俺には瞳ちゃんが必要なんだ。瞳ちゃんに会ってからの俺は、絵が描くことがもっともっと好きになった。俺の描く絵を1枚残らず全部見て欲しいと思ってる。だから病気が治るまで一緒にここにいる。そして治ったら…、二人で東京に行こう。」

「まぁ…。」

白井おばさんが口を両手で覆いながら驚く。

まるでプロポーズのようだったからだ。

瞳ちゃんは大粒の涙を隠しもせず、顔を真赤にしながら微笑んだ。

「ありがとう…。私を一緒に…、連れて行って…。」

と答えてくれた。

拭っても拭っても溢れ出る涙。

彼女の笑顔は俺の脳裏に焼き付いた。


 ご飯を食べ終わった後、光司君は直ぐにスケッチブックを持ち出し、さっきの私の嬉し泣きの顔を絵にした。

ちょっぴり恥ずかしいその絵は、その場にいた人達の言葉を奪う。

儚くて切なくて、絵に触れた瞬間粉々に崩れそうなほど繊細で、だけど奥の方には…、何か、確固たる決意のような強い光が輝き、全体を包んでいる。

彼の強い愛情と、いつ死んでもおかしくない私を絶対に守るんだという信念のようなものを感じた。


本当に嬉しかった…。

彼の描く絵を見る度に寿命が伸びていくような気さえしている。

絵に癒され、励まされ、そして生きるという強い心を貰ったような気がした。

先生の言う通り、彼の絵には力がある。私は確信した。

もっと見たいと思った…。

彼が鉛筆を手放すその時まで…。


「光司君は、もう世の中に出るべき画家なのね。頃合いを見て東京で個展を開くのね。」

そんなとんでもないことを言っていた先生は本当に嬉しそうだった。私も見にいけたら…、いいな…。

先生は今日教えたことを反復練習するように彼に伝える。

毎月1枚、その月で一番良いと思った絵を、必ず返すから送って欲しいと依頼し、彼も快諾した。

その絵は私と二人で選びなさいとも言ってくれた。

「来年は生徒を連れて遊びにくるのね。」

先生はそんなことを言いながらとても嬉しそうだった。

光司君の未来は、少しずつ、そして大きく開けようとしていた。


だけど…、先生の元には…、彼の絵は1枚しか送られることはなかった。

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