第3話
光司君は一心不乱に鉛筆を動かしている。
彼の耳には川のせせらぎも、鳥や蝉達の鳴き声も、まったく耳に入ってないみたい。
時々魚が跳ねて、ポチャンと聞こえる音にも反応しない。初めて魚が跳ねた音を聞いた私は、もう一度ジャンプしないかなと、必死になって川を見つめるけども、そういう時に限って何もおこらず、視線を川から他へ移した瞬間にまた音が聞こえる。
まるで魚に遊ばれているみたいだね。
数分で鉛筆を止める。スケッチブックには薄っすらと線が引かれていたけど、絵にはなっていなかった。使い込まれている手提げから、絵の具と筆洗いを取り出して、川の水を汲む。
パレットに緑系の色を出すと少しずつ色んな色を混ぜながら新しい色を作っていた。
私も川に近づく。ゆっくりと足を入れてみた。
「つ、冷たーい…。」
想像以上に冷たかった。
プールの水よりも、普段飲んでいた水道水なんかよりも、全然冷たい。まるで冷蔵庫で冷やしていたかのような冷たさだった。
両足を入れようとした時、彼が気付いて声をかけてきた。
「川の中の石は滑りやすいから気をつけてね。」
「うん。」
振り向いてから、小さく頷いた。
彼の視線はずっとスケッチブックに向けられている。
踏み込んだ素足からは、確かにぬめりのある石の感触が伝わってきた。スカートが濡れないように少し持ち上げて両足を入れる。
ひんやりとした感触が気持ちいい。
「俺ら学校まで遠いからさ、夏休みはここで泳ぐんだ。」
振り向くと彼は、やはり視線をスケッチブックに向けたままだった。
ここで初めて気付いたことがある。確認のため再び彼の隣に座り、描かれていく絵と光司君を観察していた。
何分経ったかもわからないけど、彼は長い時間一度も景色を見ていない。パレットで色を作ってはスケッチブックに乗せていいく作業を繰り返している。
でも、やっぱり今描いている景色と現物を確認したりしていない。
だけど、そこに描かれた景色は目の前のとそっくりだ。
私は何度も何度も、実際の風景とスケッチブックに描かれた絵を見比べる。
彼の色は独特な感じがした。
同級生の絵は、自分も含めて余白無くガッツリと塗ってしまうのだけど、彼はそっと色を置いていきながらところどころ塗れていない場所や、極端に色の薄い所もある。
描写というよりイメージといった感じに。
だけども描かれている景色と見比べるとそっくりだ。岩の形、木の枝、流れていく雲まで今そこにある物がそっくりだった。
突然彼が顔を上げると、その瞬間に魚が跳ねてポチャンと音が聞こえる。
私が見た時には魚は見えなかった。だけども彼はまるで知っていたかのように魚を見て絵に書き込んだ。
自分だけが見られなかった魚の姿がそこにあった。こんな模様してたんだ。
飛び跳ねる時に出来る水滴までがリアルだけども、イメージ風に描かれている。
風景がほぼ書き終わる頃には不自然な箇所を見つける。
そう、絵の中心部がぼんやり空白だった。そしてそこには私達が座っているはずの場所。
「瞳ちゃんはそのまま座っていて。」
そう言って彼は立ち上がり数歩後ろに下がった。振り向いていた私に「前を見て」と言ってきた。
川に視線を移した瞬間に魚が跳ねた。初めて見れた嬉しさで、振り返って「やっとお魚見えた!」って伝えると彼はニコニコしながら戻ってきた。
「瞳ちゃんの笑顔もやっと見れたよ。」
そう言ってスケッチブックに私達二人を描き始める。
そこには絵を描く光司君と笑顔で横顔の私がいた。絵の中の私は、さっきの満面の笑みだったのでちょっと恥ずかしかった。
視線を外し空を見上げた。ゆっくり流れる雲を見たあと目蓋を閉じてみる。鳥や蝉の鳴き声と、川のせせらぎが耳に届く。またどこかで魚が跳ねる音が聞こえた。
私は自分がこの先どうなるのか知っている。そのせいで岐阜の親戚の家から追い出されるようにして、ここに来たことも知っている。そうでなくてもお荷物だった私を追い出せて、清々したおばさんの顔も思い出せた。
そんなおばさんを来る度に叱る源五郎おじいちゃんは、おばさんの目の上のたんこぶみたいな存在だったのかな。
「私、死んじゃうのかな…。」
ふと声に出してしまった。
「死なないよ。」
彼は即答した。
「見て。出来た。」
そう言ってはにかみながら完成した絵にどれほどの時間見惚れていただろう。そして何となくその絵に込められたものを感じ取ってしまった。
「人間はさ、死んだら自然に帰るんだって。遅かれ早かれ俺もそうなるよ。」
そんなありきたりで信仰めいた言葉に説得力はなかった。でも、彼の絵はそんな言葉すら信じてしまいそうなぐらいの力があった。
「ここの奥の山にはさ、古い神社があるんだ。お盆にはお祭りもあるから、源爺に一緒に連れていってもらってさ、病気が治るよう一緒にお願いしてみようよ。無駄に古いから、もしかしたら効き目あるかもね。」
そう言いながらスケッチブックを今書いたページから一枚めくると、今度は鉛筆だけでさっきの絵と同じ構図で絵描き始めた。
鉛筆の強弱や塗り潰しで表現されていく絵は、色を乗せて描くよりも早く仕上がっていく。
途中までは突然のことでビックリしていたが、少しずつその絵に惹き込まれていった。
だって、さっきとまったく同じ絵が出来上がろうとしていたのだから。
魚の跳ねている位置や水滴までもがまったく同じで、色を乗せた絵よりも鉛筆で描かれる細い線なんかも手伝って、細かい部分も再現されていく。
半分ぐらい出来上がったところで再び気付いたことがある。それは、やはり景色を見てないことだ。
さっき描いた絵も見ていない。
なのに、さっきの絵とまったく同じな今度の絵。
途中川の向こう側の少し高いところにある道路に中型で箱型のトラックが停車した。道を確認していたのか、2~3分ぐらい停まっていたのだけども、彼はそこにトラックが無い時の風景を事細かく書き込んでいった。というかトラックすら見ていない。
そして出来上がった絵をブチブチブチと真ん中の針金のところから千切ってスケッチブックから切り離すと、
「貰ってくれると嬉しい。」
と言って赤面していた。
「ありがとう…。凄く嬉しい…。」
嬉しいと言ったのには意味があるし、多分光司君にも伝わっている。彼はますます顔を赤らめていたから。
この絵を見た時に感じた印象は「出会い」、そして「初めての恋」。
私に対する愛情みたいなものがヒシヒシと伝わってきている。
彼からすれば、好きという言葉が隠されたラブレターを渡しているつもりだったのかもしれない。
私の病気を知っていれば面と向かって言うのには抵抗があるけども、こうしてこっそり自分の気持ちを伝えてくれたのかも知れない。
だけど、それが私にはとても嬉しかった。
病気が分かって友達はみんな離れてしまった。
それまで取り敢えず普通に接してくれていた親戚のおばさんまでもが、まるで腫れ物を触るかのように、そう、人として接してくれないと感じた。
だけど光司君は初対面だけど、幼馴染のように自然に、ほんとうに極自然に接してくれた。
そんな些細な事がとても嬉しかったし、そんな彼に、こんな素敵なラブレターを貰えて、もっと嬉しかった。
私の最初で最後の青春はこうして始まって、直ぐに終わるものだと思っていた。
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