ミツバチ

 大抵は新月の宵であった。そうでなくては見えないほどに、その炎は青く、影を僅かに揺らすばかりで、闇夜に落ちた椚の林を、幾らも照らしはしないからだ。ぶよぶよとした、熱などない膜のように、どうかすれば見えるほどだった。

――楽しいかい?

 耳元の声も遠く、私はまた一つの羽音に気を取られていた。飛礫つぶてのように飛来して、そのまま巣へ取り付くかと見えて、訝るような動きへ転ずる。一巡、二巡と飛び回る。その浅ましさに歯噛みした。

――大差ない。

 兄は私の怒気を常に見透かし、そのようなことを言う。すると言葉の通り、蜜蜂は心に決めた確かな軌道で、すいと仄かな火球に挑み、瞬く間に羽を焼かれて落下した。六本の足を一つに束ね、黄色みのある炎の尾を引き、落ちゆく様がよく見えた。

――楽しいかい。

「ううん」

――楽しかないか。

「綺麗だ」

 私の返答に、兄は一瞬黙し、その後で笑った。そうか、綺麗か。そう言って、かさかさと残る声で笑った。

 周到な兄は、風のない日を巧みに選んだ。巣が時折火を噴く音と、虫の体の弾ける微かな音も、よく聞き分けることができた。

「帰りたいんだね」

――死にたいのだよ。

 ほろり、ほろりと、林の底で流星が降る。蜜蜂は報復を企てず、叫びもせず。ただ愚かしく走り、火に清められては一匹、また一匹と、降り続けた。


 巣穴から火柱が立ち、わあっという声が上がった。背中を焼かれたミツバチが一匹、救いを求めてころりと落ちる。運命を否定するように叫んでいたが、髪は美しく燃えていた。

 凄まじい熱量に、巣は膨らんで見えた。近づくほどに、熱にたわみ、ぎいぎいときしむ建材の音が高まった。頭上のガラス窓が、一瞬だけ風船のように膨らんでから粉々に砕け、噴き出す炎に道を開いた。瞬時に散り散りとなったカーテンの向こうに、伸ばされたミツバチの手を見た気がした。

 巣は、ほぼ同時に全てのフロアが炎に包まれたという。スプリンクラーが燃油を噴いたのでは、助かるものなどほとんど居まい。兄らしい仕事だ。私は梯子の上から、地上の群集を窺った。

「火勢が強すぎる。突入は許可できない」

 私は幾分か残念に思いながらも、その決断を通信機に伝えた。各梯子車には後退を命じ、倒壊危険距離ぎりぎりからの棒状放水を指示した。

 距離を空けると、先ほど火を噴いた上階の窓がよく見えた。やはり手があった。窓枠に掛けるでもなく、枯れた花のように直立している。近くで見られないことが、心から悔やまれた。

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