秘密
今月に入って彼女は、薄目を開けて眠るようになった。骨の形が分かるほど痩せて、瞳には膜がかかったような濁りがある。それでも、とくに黄昏時などは、ただ暖かい昔を懐かしんでいるだけの女に見えた。
検温の時間になり看護師がやって来たので、夢を見てるんでしょうかと訊ねてみた。受け取った言葉の意味を胸の中で確かめるような数秒の後で、きっと幸せな夢ですよと、看護師は答えた。嘘であるような気はしたが、ありがとうと私は言った。
看護師が去り、私は彼女の口元に当てられたカップをずらし、鼻に差し込まれているチューブの下敷きになっている脱脂綿の位置を直し、噴霧器の水と点滴と尿バッグの内容量を確認した。
ガウンの襟を整え、管や線が必要以上に体に触れないよう、その位置も変える。どこか布団から出ている箇所はないかと視線を走らせると、右手が出ていた。ベッドの柵を掴んでいた。
彼女の握力は、まだ意外なほど強かった。柵の棒の代わりに私の指を差し込むようにすると、うまく外れた。彼女の爪に、マニキュアの名残が付いているのに気づいた。
入院以来ずっと治療にこだわってきた彼女が、鎮痛剤と眠剤の連続投与を受け入れたのは先月の終わりだった。あたしもう眠っちゃうからと私に告げたとき、そういえば彼女は久しぶりに化粧をしていた。
しばらくの間、彼女に手を掴ませたままで私はテレビを見た。やがてするすると音もなく窓辺のカーテンが閉じ、照明が点き、それから少し経って給食のワゴンが廊下をやってくるカタカタという音がし始めた。ワゴンはゆっくりと、彼女の病室の前を通り過ぎた。
私は手近にあったタオルを取り、片手でそれを丸めると、彼女の右手に握らせた。そして布団と毛布の下に収めると、また来るからと耳元に囁き、病室を後にした。
病院の外へ出て通りを渡り、川沿いの土手にしつらえられた階段を登る。堀と言ったほうがしっくりとくる都会の川面で色とりどりのネオンが揺れるのを眺めながら、妻に電話を入れた。
彼女の容態を妻が訊ね、変わりないよと私が答える。そして、これから帰ると伝えて通話を閉じる。ここのところ電話の内容はいつも同じだ。
妻の望みは、家で彼女の話はしないこと。それだけだった。数年前に一度だけ関係を持った女を病院で見かけた、身内はいないようだ、そう打ち明けた私に、思った通りにしていいよと、翌日になって妻は言った。
帰り道、目を瞑るたびに彼女の爪の色が浮かんだ。
誰にも話すまいと思った。
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