十月のふたり
夜の川は、底のないクレバスのように見える。けど片隅には映り込んだ町の灯が、波で分断されつつも、波でゆらゆら揺れている。それで僕は安心し、同時につまらなくなる。
滑落した瞬間に捜索を断念せねばならないほどの深淵に架かる橋。そんなものが在る世界を頭に描き、僕はひとしきり愉しく震えた。欄干に肘を置き、少しずつ体重をかけてみたりした。
「もう十月だね」
彼女が、手紙を朗読しているみたいに言った。両手をコートに突っ込んで、肩幅くらいに足を開いて、川面なんかよりぜんぜん高く、遠くを見ている。彼女の関心は、いつも地上のどこかに向けられている。地の底にも星の海にも、魅入られるということがない。だからその後に彼女が言った言葉を、僕は奇妙な気持ちで聞いた。
「秋とか冬って、何かが終わってく空気がない?」
「それは、物寂しいってこと?」
「まあ、そうかな」
僕は、そろそろ仕舞わなきゃいけないなと思っている、何着もの半袖のシャツのことを考えた。けど、そういうこととも少し違うんだと思って、結局は黙った。
「春はね、逆にいろんなことが始まる空気」
「ああ」
「焦るの。どこかに行かなきゃいけない気がして」
「そわそわする」
「うん」
川の上流からさざ波の一群が、目に見える風のように駆け下りてくる。それが足元を通るとき、風は橋の上の僕らも撫でていく。思ったよりも冷たくて、首が竦んだ。夏はずいぶん前に終わった。
僕も彼女も、夏はそんなに好きじゃない。でもこれからの季節は熱をくれない。奪っていく。だから寂しいのだと思った。僕はそっと、彼女の袖口の辺りを盗み見た。僕と手を繋ぐのと、今のままにしておくのと、彼女の手はどちらが暖かいのか考えた。
「帰ろっか」
彼女が言うので、頷いて、僕は欄干から手を離す。なんだか親子みたいだったなとあとから思った。駅へ向かう坂道には街灯が少なく、照らされていない部分の闇が余計に濃く見えた。
「ポケットに手、入れてもいい?」
僕の言葉に、「何でよ」と困ったように彼女は笑う。でも左手を引き抜くと、「んっ」という声で僕を促した。僕は最初からそうしようと思っていたわけじゃないけど、彼女の手を握った。
「やっぱ、これで」
彼女は、「もう」と言う形に口を動かして、また笑った。赤くなっていることを期待したけど、街灯の光では色がよく判らない。月が出ていてもたぶん同じだろう。だから僕はきつい坂道を登りながら、右手の中の彼女の手の熱を、注意深く計り続けた。
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