長生き競争

 さくさくと草を踏む、軽やかな音。それだけに今は集中し歩く。耳元で風の音はするけれど、肌に残されていく涼は思ったよりもすくない。予報よりも大きく上がった気温は、曖昧に霞む春の空からは想像できないほどの疲弊を私たちにもたらした。

「どうしたカーサン、へばったのか?」

 父の、嘲りを含んだ声がする。

「うるさい、ちょっと黙って」

「なんでえ、気遣ってやったのに」

「余計なお世話だってのよ。このは、大丈夫?」

「……なんとか」

「なんだったらその荷物こっちに渡したっていいんだぜ、しょうがないから持ってやらあ」

「ほんとに、よく喋る男だね。そっちこそ空元気なんじゃないの?」

「残念。ピンピンしてらあ。俺はお前より長生きしなきゃならんからな。鍛え方が違うのさ」

「そんなこと言って、ある日ポックリ逝っちゃうんじゃないの? 女のほうが平均寿命は上なんですからね」

「てめえ、縁起でもねえことサラッと抜かしやがって……なんつう可愛げのねえやつだ」

「ハイハイ、すみませんね」

「け」

 父の、まるで十代の子みたいな悪態で、そのひとしきりの交戦は終わった。軽く一呼吸おいた後で、「すこし休むか?」と父が、私へ振り返る。

「平気。あとちょっとでしょ」

「がんばろ」と母。

「うん」

 応えながら私は、どこから湧いてくるのかも分からない透明な喜びで、疲れが洗い流されていくのを感じていた。


 去年の二月に、母は老いてなお溌剌としていた両親を、一度に喪った。私にとっても大好きな祖父と祖母だった。いつも賑やかで、会えばいつでもこちらのほうが色々と心配され世話を焼かれるような、元気な人たちだった。夏や正月の休暇を終えて東京へと戻るときには、必ず玄関口で引き止めて米や野菜を山ほど持たせようとするので、母がその対応に毎回苦慮していた。その祖父と祖母がいちどきに他界した。二人で初めての海外旅行先、イタリアへと向かった飛行機が落ち、骨さえも取り戻せなかった。

 母はその日から変わった。元々、母にはどこか、元気すぎる両親を後ろから見ているような位置取りを、自分の領分と心得ているようなところがあった。そんな母にとって、失われたものはあまりに巨大すぎた。体調を崩し、見る見るうちにやつれていって、うつ病と診断された。

 そんな母に、父はある日言った。

「俺はお前より長生きするからな」

 言われた母はポカンとしていた。

「俺の葬式をお前が出すことはねえって言ってんだ」

 重ねて父がそう言うと、母の目から涙がこぼれた。母は幼子のように、父にすがり付いてわんわんと泣いた。祖父たちの事故の一報を知ってから、それが初めての涙だった。


「見えたわ!」

 先頭を切っていた母の弾んだ声がした。

「見事なもんだな」

「お花見はやっぱりここよね」

 そう話す父と母に、私も並ぶ。母の故郷。母自身も幼い頃から毎年のように訪れていた、山上にある樹齢千年の桜の木。それは今年も、満開の花を咲かせて私たちを待っていた。

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