海辺の森

 俺は耳を澄ませ、古い卓上コンロからシューシューという音がちゃんとしているのを確認してから、台所の椅子に腰掛けた。

 時計に目をやる。

 この時間なら、姉ちゃんはまだコンサート会場に居るはずだ。

 先週、俺がそのコンサートのチケットを渡したとき、姉ちゃんは「ありがとう」なんて言いながらボロボロ泣いてた。

――バカだよな。

 俺はポケットの中で、100円ライターを握り締める。

――騙されてるのも知らないでさ。


 俺の地元は海が近くて、その海岸線の一角には小さい森がある。俺はそこで一度だけ、ものすごくきれいな珊瑚礁の海を見た。中学の友達に、青森に珊瑚礁なんかあるわけねえだろって笑われるまで、疑ってもいなかった。

 コンクリートの突堤が延びていて、水がすごい澄んでて、珊瑚礁の間をいろんな色の魚が泳いでて。そんな夢みたいにきれいな海を、暗い森の中から見てる。そういう記憶があった。

 でも確かにおかしい。そう思って、俺は実際に行ってみた。

 当然ながら、珊瑚礁なんかありはしなかった。けどそれを確認するだけでは、済まなかった。


 人間は、時々とんでもなくバカになるものらしい。

 見えてるはずなのに見えない。分かって当然なのに分からない。確かにあったことなのに、忘れちまう。

 自分を守るために。

 俺は知らない大人がやたらと家を出入りしてるのも、しょっちゅう家の中がドタドタ騒がしいのも、普通だと思ってた。

 姉ちゃんが高校行ってないのも、たまに服とか破けてるのも、時々シャワー出しっぱなしで泣いてるのも、深く考えたりしないで見過ごしてきた。

 けどあの森で見たことは、起きた出来事は、簡単にはごまかしきれるようなものじゃなかった。だから俺は、テレビか何かで見たきれいな風景を記憶に貼り付けた。

 そして何もかも忘れて生きてきたんだ。普通の顔して。


 玄関が開く音で、俺は我に返った。奴が帰宅したらしい。

 不満げな息を吐きながら、廊下を近づいてくる足音が聞こえる。

「あ? 何やってんだお前」

 親父は、俺が台所に居るのに気付くと、そう言った。

『どうです皆川さん。実の弟にも参加させてみる、というのは?』

 この声だ。

『もちろん、追加料金はいただきますがね』

 こいつはあの日、この声で言ったんだ。

 親父は、俺をいきなり殴った。

 たぶんガスの臭いで、すぐに俺の魂胆を見抜いたんだろう。イタチみたいな、むかつくしたたかさ。こいつはそれだけで生き延びてきた屑だ。

「ふざけんなっ! 死ねっ! 糞餓鬼!」

 親父はそう言いながら何度も殴りつける。

 けど俺も、もうあの頃とは違う。

 俺は必死で這った。

 手から離れてしまったライターに向かってなんとか近づこうとした。

 俺は姉ちゃんのことを考えた。

 コンサートのチケットぐらいで大喜びする姉ちゃん。

 制服着た高校生を羨ましそうに見てる姉ちゃん。

 俺の体から慌てて目を逸らす姉ちゃん。


 姉ちゃん。

 俺たちは駄目だ。

 親父も俺も、そばに居ちゃいけないんだ。

 俺の手がライターに届いた。


 姉ちゃん。騙してごめん。


 光と衝撃を感じた。でもその直後には、俺はもう何も分からなくなった。

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