被虐の愛

 その日もとても暑くて、僕は相変わらず飲み過ぎていた。

「新作が受けるかどうかなんて、自信ないよ。そりゃあね」

 そう言う僕の声量はほんの、犬の寝言程度のものだった筈だ。

 けど意外なことに彼女は、ひまわり色のピックアップを洗う手を止めてまで、僕を見た。

 なんだか、自分の舌を飲み込んじゃったみたいな顔だな。そんな感慨が湧いて、そしてあっという間に消えた。

「けど、」

「何の話をしているのよ?」

 彼女の声は鞭みたいだった。

「一銭にもならない小説を書くなんてもうやめたら? って、私はさっきそう言ったの。それがあなたには、いったいどんな風に聞こえたの?」

 片手を腰に当てた格好の彼女が、僕に近づく。その瞳は、油を流し込んだみたいな光りかたをしている。

 本当はそのとき、僕はとても怖かった。

 今まで固い地面だと思っていたところはぜんぶ、それらしく見せかけたベニヤ板だったのだという事実を知ってしまったみたいに。痺れるくらいに、怖かった。

 それでも僕は黙っていた。

 原爆をきっちりと中心に落とせば、台風を跡形もなく消すこともできるそうだけれど、でもそれはとても愚かなことだ。

 僕は黙っていた。

「人の話をちゃんと聞かない人って、嫌いなの」

 僕の足下にあるバケツから、彼女は僕の大嫌いなものを掴み上げた。

 ビールを冷やすために用意した氷を砕くために用意した、先端恐怖症の僕が仕方なく用意した、アイスピックを。

 彼女は少し笑った。ように僕には見えた。

 でも、彼女は僕の手首を刺した。

 少しも躊躇しなかったに違いない。アイスピックの先端は骨をかき分けて突き抜けた。だから僕は、飲みかけのクアーズさえ持っていられなくなった。

 膝とサンダルとコンクリートを濡らして、缶が転がる。たぶん陽が沈む頃には、誰かがそれを拾って、透明な、ジッパーのついたビニール袋にしまうのだろう。

 同じ場所には「3」とか「E」とかの記号付きプレートが置かれるのだろう。

 僕の最期の寝相が、白墨で地面に描かれることになるのだろう。

 それでも僕は黙っていた。

 彼女は僕の肩を刺した。

 僕の胸を刺した。

 目を刺した。

 彼女の髪が、金のたてがみのように踊る。ヘアカラーだから、本物のブロンドよりもきれいだ。

 僕は彼女を美しいと思った。そしてそれがおかしなことだなんて、夢にも思わなかった。

 僕はずっと待っていたんだと思う。

 僕はビーチで、バーで、ピックアップのナビゲータシートで、だいたいはビールを飲みながら、虚ろな目で自分の靴ばかりを眺めてとてもとても長い時間を過ごしてきた。

 そうしながら、僕は待っていたのだ。

 僕はようやく今日、ここで、初めて彼女に出会えた気がする。

 待っていた人と出会う。それにまさる喜びが、この世界にどれだけあるだろうか?

 さっきまでの僕はもういない。

 今の僕は口の中の舌の裏まで、一片の闇もなく光に満たされ輝いている。

 僕は、彼女を愛している。

 痺れるほどに。

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