呪詛
雨が降っていたほうが、様になる。
そう思っていたら本当に降りだした。吾妻の顔に、笑みがこぼれる。
土砂降りの中、バシャバシャと水を跳ね上げ、邪魔な小学生を殴り飛ばして、彼は走り続けた。
背後からの怒声に振り向くと、一人の警官が路地から飛び出してくるところを見た。
しかし勢いがつきすぎていたらしく、警官は足を滑らせ盛大に転倒した。その拍子に、くわえていた呼び子笛から「プヒィ」というなんとも間抜けな音が漏れ聞こえ、吾妻はその場で爆笑し始めた。
身をよじって呵々と哄笑しながら、先ほど奪った拳銃を遠巻きにしている野次馬集団に向け、撃ちまくる。
いくつかの悲鳴があがったような気もしたが、彼にはどうでもよかった。
ただとにかく楽しい。実に爽快な気分で笑い続けながら、彼は一人の男のことを考えていた。
生涯に一人の友人のことを思い返していた。
吾妻は、友人・三上秀夫と交わした会話の全てを覚えている。
「人間には、できないことなんてないんだよ」
彼、三上は、初対面の吾妻に対してそう言った。当時在学していた高校の屋上でのことだ。
その日吾妻は飛び降り自殺を図っていた。
見下ろす校庭にも、階段に通ずる戸口にも、夥しい数の観衆が集まっていた。
そのさなかに、何やら小汚い麻袋を担いだ三上がふらりと横へやってきて、そんな言葉を吐いたのだ。
ありふれた説得手段だと思った吾妻は、同学年らしきその男の顔を見ることさえしなかった。
「人間は交差点の真ん中でオナニーができる。生中継のカメラの前で死ぬことができる。自分の片手を唐揚げにして食うことができる」
吾妻の態度には構わずに、三上は続けた。
「人間は空を飛べないよ」
自分でも知らないうちに、吾妻はそう返していた。
三上はそれには答えず、ただ微笑んでいる。狂った菩薩のような奴だと、吾妻は思った。
「100メートルを8秒台で走れる人間は、まだいないよ」
吾妻が重ねて言うと、三上はふーっとタバコの煙を吹くようなため息をついた。
「今日は遊びに来たんだ」
三上はそう言い、麻袋から陸上競技用の砲丸を三つ取り出すと、人で溢れ返っている校庭へ、次々と無造作に投げ落とした。
数秒の静寂ののち、
「ギィヤアアアアア!」
という悲鳴が上がる。
「豚みたいだ」
吾妻が下を覗きながらそう呟くと、
「お前は、豚にはなるなよ」
深い親愛の滲む声で、三上が答えた。
振り返ろうとした吾妻の視界を、跳躍する夏服の白い残像がよぎった。
そのようにして三上秀夫は逃げ切った。
彼は自由から自由へと飛んでみせたのだ。
降り続く雨の中、包囲の警官たちは増える一方だ。
呼びかけにも反応を見せず、つまらなそうにただ周囲を見やっていた吾妻は、いきなり銃口を目に押し当て、そのまま引き金を引いて絶命した。
彼は最期に、銃身の中を突き進んでくる銃弾を見てみたいと思い付き、それを実行したのだ。
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