さよなら、小倉さん

『彼が家に来る。』

 文章にすれば句点を入れても7文字。

 大抵の人にとってはよくある出来事。いやむしろ喜んで大歓迎すべき素敵なハプニング。


 けれど私は後悔と混乱と焦りのただ中にあった。

『彼が家に来る。』

 この家に?!

 私は辺りを見回す。その行為には、怖いもの見たさに近縁の勇気を必要とした。

 まず目に付くのはゴミの量だ。

 散らかっているなんていう表現では生ぬるい。それは堆積している。

 服屋さんの袋や商品パッケージなどの紙やビニールゴミが、床を覆い隠す物量で堆積している。

 今になって気づいたが、それらのゴミは全て『踏んでも痛くない』種類のものに限られている。

 ということは無意識のうちに私は、『踏むと痛い』金属やプラスチックゴミはちゃんと分別してゴミ袋にまとめているのだろう。


 バカじゃないだろうか。

 ゴミはゴミだ。なぜ毎回全てきちんと捨てないのか。

 内心にふつふつと自分への怒りが湧き起こる。その怒りは、私に決然として立ち上がる闘志をもたらしてくれた。

 目標名『彼氏』がこのマンションへと到達するまでに残された猶予は僅か。

 やれるのかと今は問うまい。やるしかないのだ。

 私は活力をもたらすジンジャーとシトラスのお香を選んで香炉に入れ、火を点けた。


 まずは掃除に取りかかる。

 手始めに、積もりに積もったゴミをワッシャワッシャとかき集めてはクローゼットに隔離する。

 ゴミ出しは後日にと決め、私はとりあえず全力でワッシャワッシャした。

 しばらくの間そうしてワッシャり続けていると、だんだん楽しくなってくる。

 何だろう。状況のスリルがそうさせるのだろうか。ギャンブルとかにハマる人の理由ってこれかも。そんなことを考えていた私の嗅覚が、異臭をキャッチした。

 やがてゴミの下から姿を現した異臭の元を、私は茫然と見下ろす。

 リビングの床になぜメロンが。


 (元)メロンは腐って溶けていた。絨毯にはベタベタとした腐汁まで拡がっている。

 気絶寸前の私を、更に別の異臭が襲う。今度は明らかに危険な香りだ。

 ハッとして見やると、クローゼットから黒煙が吹き出している。


 なぜ。

 訳がわからない。火事? まさか私、香炉をゴミと一緒に……?

 大変火を消さなきゃ。どうして気づかなかったんだろうあんなに汁が絨毯にべっとり汁が。火を消すには水? 汁じゃ駄目? だってこんなに汁が。だって汁が……


 私は病室で目を覚ました。

 隣には泣いて喜ぶ彼がいた。

 状況を解せないでいる私に彼が、

「ほら、シルガだよ」と言って長年の付き合いである熊のぬいぐるみを渡してくれた。シルガ……?

「僕が管理人さんと部屋に入ったら、君が『シルガ、シルガ』って呟いてたんだ。きっと前に聞いたぬいぐるみのことだと思って、持ってきた。こいつだろ?シルガ」

 急速に私は顛末を把握した。

「そ、そうよ、ありがとう私とシルガを助けてくれて! ああ、シルガ!」

 私は叫び、ぬいぐるみをがっきと抱きしめた。

 こいつの本名(小倉さん)は一生明かすまいと、心に決めながら。

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