解体処理
のろのろと対流する温かな泥の中に一粒の泡が生まれ、表面へと顔を出し弾ける。そんな風にして意識を取り戻した。
私は二本の足でどこかに立っていた。暗く寒い。天井に並んだ照明は落とされ非常口を示すパネルの他に光源はない。乏しい明かりに目が慣れてくると閉店後のスーパーマーケットのような場所であることが分かった。冷気を湛えたショーケースからパック詰めされたトレイの一つを手に取り何気なく覗いてみるとその中に居た人間と目が合った。
一瞬時間が途切れた。
気がつくとパックが足元に落ちている。私は何か叫んだかもしれない。かすかにそんな記憶があり喉も少し痛む。
拾い上げたパックを持って非常口の明かりにかざすと、願いとは裏腹にさっき見えたものは幻覚でも何でもなくトレイに横たわっているのは身長二十センチほどの裸の人間であった。
凍えるような冷たさがトレイを乗せた指先から全身に伝播する。小さな人間は死んでいるようだ。目を見開いてはいるがその瞳は欠片ほどの生気も感情も備えていない。
どうしようもなく震えて仕方のない手で次々にトレイの中身を確認していく。皮膚の付着した肉片があった。十数センチの裸の女が五·六人並べられ頭部を棒で刺し貫かれたものがあった。三人ぶんの首から上だけがひとまとめにされたパックもあった。
船酔いのような回転する感覚が頭の中で渦巻いている。床は揺れても傾いてもいないがまっすぐに立つことができない。私は這ってその場を離れた。壁伝いに手をついて進む。ドアを見つけたので押すと思いのほか軽く開いた。
ドアの向こうは雑然とした通路のようなスペースになっていた。目に沁みる照明にいくらか励まされ膝を床から離すと、まだよろめきはするものの何とか歩けた。だが数歩もいかないうちに何かに道を塞がれた。
白衣の人影。帽子とマスクで顔は見えない。たぶん男。白衣の腹を汚す血液。手にした包丁からしたたる血液。
男の背後にある部屋の中へ視線を向ける。一瞬だったがはっきり見えた。裸の人間が頭に打ち込まれた錐で木の板に固定されその身を薄く削ぎ取られている。その映像は私の魂に深く刻まれた。
すぐさま身を翻し開けられそうな扉を探して飛び込むと手洗い場を備えたトイレであった。マネキンのような手で奇跡的にロックをかけることに成功し鏡に向き直り私は絶叫した。
叫んでいる。私は叫んでいる。だがその一方で私の中には地底湖のように静寂で波のない領域も確かにあってそれはやがて私の全てを支配した。
男の声がする。
『これから君は目を覚ます。すると不思議なことに、人間は魚に、魚は人間に見えるようになる。いいね? 1·2·3』
私には既にあらゆる意味が分からない。すがりつけるものは何もない。思い出した主治医の、つまり私の夫の、どこか悪戯めいた声でさえ崩れ落ちようとする私を引き留めることはできない。排水口に飲まれる浴槽の水のように私の全ては暗いどこかへ流れ出す。けたけたと笑う魚が最後に見えた。
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