花神

 ある年の夏。父に連れられて、兄と私とで海へ行った日。私は兄の表情ばかりを気にかけていた。


 当時中学生だった兄は荒れ始めていて、時々煙草の臭いをさせていた。きっと親や妹の相手など煩わしいだけだろうと、何故だか申し訳ない気持ちがあった。

 海へ着いてすぐ、兄の姿は見えなくなった。やはりそうかというように、私が悲しく思ったとき、遠くから、「おーい」という声がした。見上げると兄が、びっくりするほど高い崖の上から、得意げな笑みで手を振っていた。バスタオルをマントのように身につけていた。

 あれは私たちが幼く、命とぎりぎりの苦悩や絶望とは、まだ遠く匿われていたころ。幸せだった。不幸の味を知らなかった。思い出すたび私は、何度も泣きたくなった。


 私が花神を見たのは、その日の夕刻だった。

 父の車まで戻ったところで私は忘れ物に気づき、一人で浜へと引き返した。するとちょうど私たちが敷物を広げていたあたりに、着物を着た小さな男の子が膝をついて座っているのが見えた。

 私が物陰から見ていると、男の子はぽんぽんと、紙相撲をする時のように両手で、浜辺の砂を叩きはじめた。すると不思議な事が起きた。男の子が見つめている砂地に、光の粒がぽこぽこと生じた。

 光の粒は朝日のように眩しくて少し黄色味がかっていて、男の子の手が砂を叩く動きに合わせて、ぐんぐんと大きくなった。成長するにつれ、光は浮き上がり、よく見るとその下は一本の同様な光の筋によって支えられていた。風船のようにも見えたはずだが、私はそれを花だと思った。

 やがてそれぞれの光が野球のボールほどになり、それ以上育たなくなると、男の子は一本ずつ、その三本の光の花を砂地から抜き取っていった。私はそれを見ていたはずだが、気がつくと浜辺には兄だけが居て、横たわる私を覗き込んでいた。


 そしてそれから十数年が経ち、今度は、私が兄を見下ろしている。固く閉じられた瞼の奥に、あの日の眼差しを思い浮かべている。

 死化粧は、兄の悲惨な末路をよく隠していた。だがそれだけに、生前よりも生気に満ちて見えるのはやりきれなかった。人と争っては刑務所に出入りし、ヤクザの裏の仕事に関わるようになり、売り物の薬に手を出して溺れ、最期には錯乱して警察署に火をかけようとして殴打され、それが元で死んだ。

 親戚や家族は、誰も姿を見せない。これから兄は霊安室で読経をあげてもらい、市の火葬場で灰にされる。私はものを考えられず、壁際のパイプ椅子に背を預け、少しの間目を閉じて開けると、兄の傍らにあの日の男の子が立っていた。


 絶句して私が見ていると、男の子は兄の棺の、開けられた覗き窓の上へ両手を差し出した。その小さな手から、ふわりとこぼれた光が、兄の棺へと落ちる。

 いつしか私は、そうせずにはいられなくて、祈っていた。なぜなら、兄に手向けられた光の花が、あの日の浜辺での一つきりではなかったから。いくつもいくつも、数えきれないほどあったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る