ウツムシ
哲学書を読みながら、労働と笑顔をほとんど強要されているように見える大多数の人たちがなぜ馬鹿のようにいきいきと楽しそうにしていられるのか考えていた。そこには何か秘密が、手違いか悪意かによって私から隠された秘密があるのに違いない。高まる確信に急かれて読み進む。しかし邪魔をするように、ちょこまかと何かが走る、くすぐったい感触を腕に感じ、反射的に見当をつけて叩くと手のひらに小さな死骸が張り付いてきた。その死骸の大きさに見合った罪悪感と後悔がわく。ウツトリグモだったからだ。
ウツトリグモはその名の通り、ウツムシどもを食べてくれる益虫だ。今しがた叩き潰した程度の幼体では効用もたかが知れたものだが、成体にまでなればそこそこ働く。気休め程度にはなる。
が、ここで何よりも重要なのは、益虫のあるところ害虫ありという真理だ。私は部屋を見渡した。自暴自棄からくる生活の乱雑は極まっている。開封しないまま溜め込まれた通知や督促の類。一度しか着ていない衣服の堆積。何かを拭いたきりで放置された雑巾が数枚。閉めきった窓に、ここ数ヶ月揺らぎもしていないカーテン。敷きっぱなしの布団。その下の、掃除機の洗礼をいまだ知らない無垢なる絨毯……。
思い立ったが好機。駆逐しなくてはなるまい。私は注射器を手に取ると、まずはそっと郵便物入れを覗きこむ。何かが動いた。注射器の針の先で静かに紙類をかき分けると、メクラダニがいた。見ないようにしている箇所にわくので見つけづらい部類のウツムシだ。請求書や出頭命令の封筒から引っ張りだした糸で、ぬくぬくと快適そうな巣を織り上げている。その巣の中心へ注射針を刺し、中身を抜く。まずは上々。私は内部で虫が蠢いている注射器を眺めて思う。
その後も駆除に励んだ。カネハミ、シュクスイガ、ヤミカゲロウ、キガレノミ、ダラクマイマイ、スイマコオロギ……。注射器の容量が足りないかもしれない。焦りを覚えるほどの繁殖ぶりだった。見つけた巣は全部で十数箇所もあった。だが残るは一つだけだ。
ヒトジゴクが玄関マットに罠を張っていた。踏み越えようとする人間の精神に干渉して罠の上に留まらせ、ときに大量の精気を奪うこともある凶悪なウツムシだ。
そっと気付かれないように膝をつく。注射器の先端をそろそろと近づけてゆく。そのときだった。外側から玄関の鍵が解錠された。あっと思う間もなかった。ドアが開き、男が入ってきた。入ってきたのは私。私は深くため息をつき注射器をもってうずくまる私にも気づかずに通り抜けヒトジゴクは精気を盗み私は注射器を取り落とし、注射器は割れた。立ち上がった私は拡散する私は。
私は。
ああ、そうか。私は……。
私は、
……ヤヌシガタリ。
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