蛍屋の話

 どの路地にも、朽ちた建物の残骸が黒い影としてだけ残っている。とはいえ昨今の東京はどこもそんな有り様だから、今さらどうという景色でもない。

 だが伝え聞いた話を元に訪れたその一角には、光があった。どこから調達しているか知らないが、比較的傷みの少ない、その一軒の『仕立てのいい廃屋』には電気が通じているようで、軒先には古めかしい裸電球が明々と灯っていた。ぶらぶらとだらしなく風に揺れている、のれん代わりのぼろきれを掴んで確かめると、『同道屋』という毛筆書きの屋号が読める。

「ご免」と一声かけ、踏み込んだ店内には簡素な木綿の着物を身につけた若い女が居て、さっぱりとした怯えのない目でこちらを見ている。そこでさっそく、“蛍屋”を探している旨を伝えると、ここがそうだと女は答えた。

「売ってるわけじゃないんだけどね」と、手短に女が説く。続けて、「どこまで?」と問いかけてきた。

「池袋まで」とこちらも言葉少なに返すと、女は少し待っててと言って一旦奥へ引っ込み、数分して戻ってきたときには、竹ひごで出来た小さい虫かごを提げていた。

「たぶん近辺までは保つと思う。でも赤く光りだしたら放してあげて。そこがこの子の終点だから」

 という、虫かごを差し出しながらの言葉にこちらが頷いてみせると、女はありがとうと言って笑顔を見せた。


 蛍屋を出てすぐ、しげしげとかごの中身をすがめてみると、やはり話に聞いていた通り、蛍屋の蛍は虫ではなかった。入っていたのは体の一部を光らせる昆虫ではなく、光そのものだった。聞くところによるとそれは、『行き先を持った光』なのだという。

 試しに、虫かごを捧げ持ってぐるりと回ってみた。すると一方向に向けたときにのみ蛍は強い光を放った。蛍はそのようにして、旅人の足元を照らすとともに、進むべき道さえも示してくれるのだ。


 蛍のおかげで、行程は安全そのものに過ぎた。青山の陥没でできた大穴も避けることができたし、早稲田で感じた異様な気配も、強い光には近寄れないらしかった。

 音羽通りに入り、黒々とした護国寺の跡地が見えてきた頃である。蛍の光が赤に変じた。約束してあった通りに蓋を開けてやると、蛍は一直線に飛び出した。

 飛び去った先を見やると、もう一匹の蛍がいた。赤く光を放つ二匹の蛍は、ぐるぐると激しく飛び交い、そのままもつれ合って一気に高度を上げると、夜空に紛れて見えなくなった。

 一人その場を離れる直前に、我知らず、「もう離れるなよ」と、呟いていた。

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