ブリスターズ
日本の電車内は静かすぎて異様だ、という外国人のコメントを聞いたことがあるが、立錐の余地もない朝の電車内でさえ話し声で騒然となっているような国で、俺は生活したいとは思わない。
だが今朝に限っては別だ。
静かすぎて困っている。同じ車両内に亜紀の姿を見つけたからだ。
俺と亜紀の距離は、大股でなら2歩でまたげるほどだ。なのに近づけない。声もかけられない。その約2メートルほどしかない
俺はその
俺は、間にいる乗客を無理やりにでも掻き分けて、亜紀のそばに行ってやりたかった。彼女をこの殺人的な混雑から、いつもの朝のように守ってやりたかった。
こないだの喧嘩のことを、一言謝りたかった。
実を言えば、そんなことは今の今まで思ってもいなかった。何日たってもただ苛つくだけで、こちらから謝罪するなんて考えもしなかった。
でも今は違う。会話の流れとはいえ、俺は亜紀に酷いことを言った。それを謝りたいと思った。心から、謝らせてほしいと願った。
俺はやっぱり亜紀の隣にいたい。彼女に触れたい。声が聞きたい。焦がれるような思いで見つめ続けた。
そのとき、電車がガクンとひと揺れした。
車内に微かなざわめきが伝播し、多くの人が何事かと辺りを見まわした。亜紀も、周囲に不安げな目を走らせた。
そして、俺に気づいた。
亜紀は最初に目を丸くして驚いた。
が、次の瞬間には困ったような顔で笑い、少し俯いて口をゴメンネの形に動かし、そして俺を一心に見つめてきた。
俺の感覚から、周りの雑音や圧力が全て遠のいた。
言葉や時間なんて関係なかった。子供じみたわだかまりも意地も、見つめ合った一瞬後には消えていた。
愛情には目に見える形なんてない。
けど俺は、今こうして見つめ合う二人の間に、感情の磁場とでも呼ぶべき確固たる何かが実在することを肌で感じ、胸がはじけそうなほどの喜びを感じていた。
そのとき。
「ヒイイイッ!」
俺と亜紀とのちょうど真ん中の位置に立っていた男の口から、怪鳥の如き絶叫が突如放たれた。
周りの乗客がとっさに距離を置く。
何があったのか、ビジネスマンらしきその男はよろめき、うめき、苦しんでいる。鳥の鉤爪のように筋張った両手で顔をおさえている、その指の間から覗く皮膚が酷い火膨れを生じ、みるみるうちに煙をあげて溶け崩れていくのが見えた。肉と毛髪の焼け焦げる、嫌な臭いが周囲に満ちる。
俺は、余りのショックに痺れた頭で、それでもあるニュースを思い出していた。
最近頻発している、ホームレスやジョギング愛好者が全身に重度のやけどを負った姿で発見されるという、連続変死事件。
今ここで起きているのは、まさにそれではないのか。
そして次の瞬間、俺はこの上なく不吉な直感に囚われた。
そういえば、連続変死事件の主な舞台となっている公園は、俺と亜紀の家を結んだ線の、ちょうど真ん中に位置している――。
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