窓辺の人
大学生だった頃、市ヶ谷にあった六畳一間のアパートで、僕と彼女は三年暮らした。でも今日まで、それを誰かに言ったことはない。面倒だからだ。僕は今でも、彼女の名前すら知らない。
大きな窓のある西側には大通りと背の低い小学校があるだけで、夕方になると部屋いっぱいに西日が溢れた。彼女はそのくらいの時刻になると決まって現れて、僕の部屋の畳にうつる、頼りなげな細い影だった。
彼女は僕よりも頭二つぶんは背が低くて、髪は長く、学校の制服か何かを身に着けていた。恐らくだが、中学生くらいの女の子だったのだと思う。
その部屋に住み始めた当初こそ驚いたものの、やがてははあと合点もいった。都心の相場とは不釣り合いなほど安い家賃には、最初から怪しいものを感じていたのだ。
彼女は静かな、本当にただの影だった。祟るわけでも、騒ぐわけでもない。夕暮れにだけ現れて、日没と共に消えてゆく。それでいて賃料の何割かをある意味稼いでくれている。僕は彼女の存在に感謝さえしていた。
僕がその部屋で暮らし始めて二年めの秋のことだ。早い時間からうたた寝をしていた僕は、奇妙に切迫した子供の声で目を覚まされた。
「姉ちゃん! なあ姉ちゃんだろ! 姉ちゃんだろ?」
そんな風な言葉を、子供はしきりと叫んでいた。何事かと思い窓辺へ起きて行くと、通りの向こうに立っていた高学年くらいの男の子が、「あっ」と言ってそれきり黙ってしまった。
夕方だったが、今日に限って彼女が居ない。そのことに気づいたときにはもう、男の子は後も見ずに駆け去っていた。
それ以来、彼女はたびたび、素早く数歩下がっては足だけの影になるという行動を見せるようになった。彼女が後ずさったそのときに通りを見れば、そこには必ず、いつかの男の子が居た。
夢だったのかもしれないが、一度だけ、夕刻以外に彼女が現れたことがある。
夜中に目を覚ますと閉めたはずのカーテンが開いていて、窓を埋めるほど大きな月を背負って彼女が立っていた。
月の光は照らすのでなく、それぞれを光らせるのだという気がする。それまでどんなに目を凝らしても見えなかった厚みのある姿が、窓辺にすっと立っていた。僕が声も出せずにいると、彼女はゆっくり、深々と頭を下げた。そしてそのまま薄まっていき、やがて完全に消え失せた。
その夜から、彼女は二度と現れなくなった。思い返してみて、彼女が最後に現れた日は、向かいの小学校の卒業式だったことに気づいた。
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