U楽町線・逆森駅
その駅に降り立った直後、水の音を聞いた。
ばしゃん。
大きな音だった。
振り返ると、閉まったばかりのドアがあった。
動きはじめようとしている、地下鉄の車両があった。
ややあって、ああこれかと、僕は合点がいった。
さっきまで乗っていた車両の中が、いつの間にか大量の水で溢れているのだ。
透明だが少しブルーがかったその水は、ちょうどつり革の下あたりまでを占めて、鷹揚に揺れている。
まるで走る水槽だ。僕は感嘆した。
大儀そうに、電車が動きだす。
その中をすかし見てみると、まばらな数の乗客たちは、僕がさっき見ていた通りに座ったままだ。
ある者は本を読み、ある者は眠り、そして多くは携帯の画面に見入っている。その髪や服の裾がゆらゆらと水中に浮き上がり漂うままに任せて、何食わぬ顔で揺られてゆく。
僕は彼らを見送りながら、この駅で降りておいて正解だったと声に出さずに呟いた。
手近なところに駅員が見えたので、つい好奇心から、これはどういうことなのかと尋ねてみた。
「『とのきり』は、川の底ですから」
駅員は、さも当たり前のことのように答える。やけに青い顔をした若い男で、僕はさっき見た水のことを連想した。
「『とのきり』というのは、次の駅のこと?」
重ねて訊くと、駅員は覇気のない声で「そうですが」と答える。
しかし、妙だ。『とのきり』などという地名は聞いたことがない。
「どんなところ?」
僕がさらに訊くと、
「川の底です」
つまらなそうに駅員はそう言い、そのまますたすたと離れていってしまった。
埒もない話だが、残された僕はなんだか妙な気恥ずかしさを感じた。
とりあえず、『とのきり』の綴りを知るために、手近な路線図を確認してみる。
『殿切』と書くらしい。
やはり聞いたことがない。
他の駅もそうだ。
『
どれも、覚えのない名前ばかりだ。
一つ前の駅は『
……まあいい。
僕は自分の記憶に早々に見切りを付けて、とにかく外へと出てみることにした。
ここがどこで何のために来たのかも分からないが、ずっと駅の中にいてもしょうがない。
改札を抜け、階段で地上へ出た。
そして天を見上げ、僕はなるほどと呟き少し笑った。
そこに見えたのは空ではなく、頭上数十メートルの高さに広がる、逆さまの深い木立だったからだ。
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